ターン・プッタタート「俺、俺の」第一章・理解を改めるより
本当のタンマは、言葉や文字で伝えることができなくても、心にタンマが現れるようにする実践法は、言葉や文字で表すことができます。しかしその人たちの心が苦を知らなければ、幾ら言葉や文字で伝えても、彼らは受け取ることができません。
三蔵やアビダンマをたくさん勉強する必要はありません。それらの経典は、いろんな枝葉である話をまとめたものだからです。何千もあるすべての話の中で、私たちが探求して知らなければならないことは一つだけです。つまり「本当の滅苦」の話だけです。
[引用終]強調処理はわたしです。
三蔵やアビダンマをたくさん勉強する必要はありません。それらの経典は、いろんな枝葉である話をまとめたものだからです。何千もあるすべての話の中で、私たちが探求して知らなければならないことは一つだけです。つまり「本当の滅苦」の話だけです。
大乗仏教は当初から苦聖諦カットの仏教を志向していたとおもう。途中少々の揺り戻しは起きたが、今でも苦聖諦は脇に退けられ積極的に説かれることはない。理由は単純で、ウケないからだ。 一切が苦とあなたの心が知らないうちは、仏教の門は開かず、修行しても形だけ、滅苦もない。 苦聖諦の理解がなければ修行は不可能となり、修行なき仏教は壮麗なる文学と化す。
苦聖諦が仏教の入口です。
では「苦諦」はたんなる入口にすぎず、「集諦」「滅諦」「道諦」が得られる保証はないのでしょうか。 そうではありません。「苦諦」さえ得れば他の三つも必ず得ます。 ブッダが「苦が見える人は、当然苦が生じる原因が見え、当然苦の消滅が見え、当然苦の消滅に至る道が見える」と明言しているからです。 (ブッダが一番に苦諦を説いたのには深い意味がある。次に集諦、その次に滅諦、最後に道諦という「順序を正しく記憶しなさい」と、ブッダはわざわざ注意しているからです)
(過去記事増補編集再録)