人間一生、何に使うとるか。狙いが定まっておるか。 人生観、この一生を何に使うか見定めもつかずに嬶もって、分からぬ家庭を作って、子供を生んで、分からぬままに一生を終わる。死んだら未来永劫の幽霊。 これを何とかせねばならないのが、一大事である。ところが、人間、分かったつもりだけれども、分からぬのは"我"があるからじゃ。 我痴・我見・我慢・我愛 これが根本となる。だから、目・耳・鼻が真実を感得したとは言われぬ。(澤木興道「禅の道 道元禅師に叱られて」より引用)
ここに忽然として己れという錯覚が起こる。 葱や芋や牛肉やでこねくったものが仮に私という。この私というものが、今が今ままであやしいものであった。(同)
この「あやしい」という気づきは、途方もない一閃だ。
葱や芋や牛肉やでこねくった"我"はあやしいものだと、気づけるか気づけないかは人生最大のターニングポイントになる。
葱や芋や牛肉やでこねくった"我"はあやしいものだと、気づけるか気づけないかは人生最大のターニングポイントになる。