仏教講義 3「阿含経の教え 1−13」(「仏教哲学の世界観」第6シリーズ)
より引用させていただきます。
佐々木閑の仏教講義 3「阿含経の教え 1−13」(「仏教哲学の世界観」第6シリーズ)
(ブッダのことば ←青太字)
あとで後悔して、泣き叫ぶような行いは悪行である。
後悔することがなく、喜びを感じるような行いが善行である。
悪の定義、善の定義です。
人間は、思うさま良いことも悪いこともなし得る。
しかし 究極の正義は一瞬たりとも空しくなることがない。
いかなる法律や道徳よりも、厳密で正確無比の
自業自得果の法則
があるからだ。
[210202追記]
ちなみに、世間では、悪と知らずにした過ちは、悪と知りながらした悪より、罪は軽いはずだというずうずうしい考えがある。法律にも、このずうずうしい考えを助長する愚かな一面がある。
これは全く間違いだ。
悪は知らずに行うと、知って行うより重い報いがある。
無知により、悪を悪じゃないと思い込んでいたり、 これは悪だが報いなどないと自分勝手に強く信じても、悪の報いを軽減することは一切できない。
automaticに作用する自業自得果の法則に、無知による悪行が情状酌量される余地はない。
無知は人を助けず、破滅させる。
無知は懺悔を妨げるからだ。
(修証義 第一章総序より引用させていただきます)
因果の道理歴然として
悪を造りながら悪に
(以上)
[追記終]
だから、
自分の益になると分かっていることをせよ。
「善をせよ」という強い勧めです。
ところがです。
大多数の人々は、生まれてから死ぬ直前まで、感情も欲求も思考も丸ごと全部
自分が何を欲しているか知らずただひたすらに生き続けようとする盲目の意志
の奴隷なので、自分が死ぬという歴歴たる事実さえ分からない。
だから無常も分かるわけがない。分かった気でいるから死ぬまで分からない。ものごころつく頃には自分の理性さえほぼほぼ欲の下僕になりさがり、夢中で苦をむさぼっている。
自業自得とはいえ、かわいそうなのは、こんな我々凡夫ですよ。
愚か者は、まるで自分自身が仇であるかのようにふるまい、悪い行いを為して、その報いで苦しむ。
厳密で正確無比の自業自得果の法則があるから、当然そういう仕儀に立ち至りますわな。
佐々木先生もおっしゃっているように、
現実世界で善行と悪行を、予め見分けることは難しい。
道元禅師でさえ
善悪は時なり
善悪の基準は時によって変わる
と言ってるくらいです。
じゃあ、現実にどう対処するんですか。
私心を除けは金言ですが、守れたためしがない。
貪瞋痴の凡夫に私心を除ける道理はないからです。
守れないスローガンの金言では意味がないんです。
それどころか、
滅私奉公などの無私風言辞でエゴを隠し、責任を回避しながら、個々人の私利私欲を実現しようとする旧来の醜い悪癖さえ、今だに露ほども捨てられてないじゃないの。
守れないことを強いると、上達どころか、陰険に下達していくのが、人間の変わらぬサガってことですよ。
だから、守れない金言は無意味どころか、有害無益です。
もうグダグダ言うのやめて、結論を言います。
これは私心を除け的な守れない金言の類とは、明晰判明に違います。
こういうわけだから、
善悪の基準は?
日常の業の世界で生きる者にとっては善業を積むこと。
修行の道を進む者にとっては煩悩を消すための修練。
と、世間と出世間の二つの基準が示されていますが、煩悩を消す仏道修行なしに私心を除けないので、実際には、ブッダの説いた四諦八正道の修練が可能な唯一の基準であり、二つはないとおもいます。
※サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
※ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
ちなみに
澤木老師は
損はさとり
得はまよい
と喝破してます。
(My Favorite Songs)
John Lennon, Yoko Ono - Instant Karma! (We All Shine On) (Ultimate Mix)
Paul McCartney & Wings "Goodnight Tonight" (1979) HQ Sound!
単独でも独自の天才振りを発揮した(ほんとにすばらしい)けど、やはりlennon & McCartney 時代の曲に比べると、それぞれなにかが足りない感じは否めない。