哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

維摩経


 維摩経は、文学的天才が書いた小説のようなものだとおもう。

読んでおもしろいが、人を救う力はあまりない気がする。


「低劣な衆生を次第に成熟させていくために、如来は、この仏国土にこんなに多くの欠陥や不完全さがあるように見せるのである」

中央公論社「世界の名著2」 長尾雅人訳)

こんなのが維摩経の主張だ。

昔は、こういう解釈になんとなく深みも感じたが、今は大嫌いになった。

釈尊がこんなことを認めるわけがないと、おれはおもう。

同じ詮で釈尊の病気を説明して

「(人間と同様な病気などの)低級な行為を示すことによって、人々に訓練を与えようとする」
維摩経第3章)
などと馬鹿げきったことを言っている。

苦聖諦を否定し人間釈尊絶対神にまつりあげ、稀有の仏法を、キリスト教の出来損ないのような、愚劣きわまる凡庸な信仰に変えようとする。


「一切衆生病むを以ての故に、我れ病む」
維摩経の主張する崇高な菩薩の精神で、多くの人が感動するが、これも冷静に考えてみると、なんか変じゃないか。

維摩経は、スッタニパータやダンマパダの後にこれを読むと、作者の饒舌さにうんざりしてしまう。





…とはいっても、初期大乗仏典の傑作といわれているだけあって、そう一筋縄ではいかない。

おれレベルでは、教えられることもけっこう出てくる。



「法とともに住しようとする者は、法を求めているのではなく、(法と)住することを求めているのです。
法は、見たり、聞いたり、判断したり、知ったりされるものではない。
見・聞・覚・知を行うものは、見・聞・覚・知を求めているのであって、法を求めているのではありません。」

維摩経第5章 長尾雅人訳)


「おれが~」「自分が~」があるうちは、なにをどうしようと、全部ダメということ。

かと思うと、こんなことも書いてある。

「スメール山のような(高慢な)我見を起こし、しかも悟りに対して発心するとき、そこに仏法は生長するのです。」

(7章)

※『スメール山
須弥山。ヒンドゥー神話における、世界の中心をなす山。

この一節を読んで、おれはショーペンハウアーの一生を連想する。ショーペンハウアーはまさにこういう人だったのだ。

[以下141130追加]
「スメール山のような(高慢な)我見を起こし、しかも悟りに対して発心するとき、そこに仏法は生長するのです。」に関して。

宝積経にも同じような主張がある。



「慢心のある者が空性という観念(空見)によって、(自分の思想を)飾りたてているよりは、スメール山ほどにも大きな個我の観念(我見)によっているほうが、まだしもましである。」

(宝積経カーシヤパの章 長尾雅人・荒牧典俊訳)



宮本百合子が、こういう文章を残している。


『宗教が何処の国でも、その支配階級の道具として使われていることは、難かしい色々の理屈をいわないでも、吾々の日常生活の中にはっきり現れていると思います。

 この間も、ラジオの昼間放送を聞いていたら、何処かの偉い坊さんが喋っている。どういうことを云っているかと聞いてみると、
「金持が妾をおいたり、別荘をもったり贅沢三昧をしているのは、魂の安住と云うことを知らぬ哀れなことだ。それを皆さんが羨やんだり憎んだりするのはまちがいで、貧しい者こそ心がけ一つで魂の安住が得られるのだ。だから、昨今のように世の中が険しくなって、社会主義だのプロレタリア解放運動だのやかましい時代に生きる吾々としては、自分の貧しさを魂の安住の方便として仏が与えてくれたものと考え、宜しく仏の加護を信じて魂の平安を期さなければならない。」…』

(「反宗教運動とは?質問に答えて」青空文庫


プロレタリア解放運動とか出てきて、ずいぶん古い話(1931年)だけど、口を開けばこんなことばかり言ってる「支配階級の道具として使われている」「何処かの偉い坊さん」って、今でもいっぱいいる。

ステレオタイプの悟りで飾られた「聖者」の説教ほど忌まわしいものはない。

スメール山のような我見を起こした野心家の話を聞くほうが、まだしもましだ。


(過去記事統合編集再録)

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