哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

人間に捕まる修行者とは

河を流れる丸太に修行者を例えた、釈尊の有名な説法がある。

あるとき世尊はコーサンビーのガンガー河のほとりに滞在しておられた。世尊は、おおきな丸太がガンガー河の流れによって運ばれているのをごらんになった。ごらんになって、比丘たちに呼びかけられた。「比丘たちよ、おまえたちにはあの大きな丸太が、ガンガー河の流れによって運ばれていくのを見なかったか。」
「師よ、見ました。」

「比丘たちよ、もし丸太がこちらの岸に流れ着かず、向こう岸にも流れ着かず、中州で沈みもせず、中州に打ち上げられもせず、人によっても持ち去られず、人によらないものによっても持ち去られず、渦に巻かれることもなく、内部から腐敗していくこともないようであれば、比丘たちよ、あの丸太は海に向かい、海に流れ込み、海に入ってしまうであろう……。それと同じように、もしおまえたちも、こちらの岸に流れ着かず、向こう岸にも流れ着かず、中州で沈みもせず、中州に打ち上げられもせず、人によっても持ち去られず、(鬼神などの)人でないものによっても持ち去られず、渦に巻かれることもなく、内部から腐敗していくこともないようであれば、比丘たちよ、このようにしておまえたちも涅槃に向かい、涅槃に流れ込み、涅槃に入っていくことになるであろう……。」

「比丘よ、中州に沈むというのは、悦楽と欲望とを例えて言うのである。比丘よ、中州に打ち上げられるというのは自我(アートマン)ありと誇ることに例えて言うのである。比丘よ、人に取り去られるというのは[社会的な習俗・義務に心を奪われてしまうこと]をたとえていうのである。比丘よ、(鬼神などの)人でないものに取り去られるというのは、どういうことなのか。比丘よ、一群の神々に祈誓をかけて、純潔な生活を送り、自分はこれこれの戒により、修行により、苦行により、純潔行によって、神となりたい、あるいは神々のひとりとなりたい、と願う。比丘よ、このことが人でないものによって取り去られるということなのである……。」
(相応部35.200、『バラモン教典・原始仏典』、長尾雅人編)佐倉哲エッセイ集引例の孫引き

この中で、「人によって持ち去られる」とはどういうことか。
[社会的な習俗・義務に心を奪われてしまうこと]をたとえていうのである。
と、いやにふわっと表現されている(感じがする)
釈尊がこんな具体性に欠けたパンチのない言い方をしたとはおもえない。
ウィキぺディア「流れる丸太」にも同じようなことしか書いてない。
これでは、いまいちよく分からない。



『人間に捕まる』とは、この場合は在家と交わる比丘で、一緒に楽しみ一緒に悲しみ、これらの在家が幸福な時は幸福で、それらの在家が苦の時は苦になり、それらの在家に生じた仕事を自分の仕事にします。この比丘を私は人間に捕まった比丘と言います。
となっている。

こちらは意味明瞭だ。釈尊はいつもこういう風にズバッと核心を突く。

釈尊の教えを次第に守らなくなった弟子たちによって仏教は衰退し、あるいは名前だけ残って中身が別物になった。

たとえば、
「一切衆生病めるを以て、是の故に我病む。…衆生病めば、すなわち菩薩病み、衆生の病癒ゆれば、菩薩もまた癒ゆ」といった維摩経の菩薩観。
このイメージに後世、加上した(人の隠れた欲を投影しエスカレートさせた)ものとして、
人々と苦しみを共にするために、死んでもまたこの世へ還って来る菩薩、といった曇鸞還相回向
この「死んでもまたこの世へ還って来る」ところが、人の隠れた欲です。
これらは優れた文学であって、釈尊の教えとは別物だとおもう。すなわち「さとりに向かい、さとりに流れ込み、さとりに入っていくことに」ならない。



[130407追記]
孫引きではまずいかなと気になって、世界の名著1『バラモン教典・原始仏典』 (責任編集 長尾雅人)にあたってみた。

上記「比丘よ、人に取り去られるというのは[社会的な習俗・義務に心を奪われてしまうこと]をたとえていうのである。」の部分は、
「比丘よ、人がもち去っていってしまうというのは、どういうことなのか。比丘よ、この世の中では、家庭をもった者が互いに社会をつくって住み、喜びをともにし、悲哀をともにし、種々の楽しいことにあたって楽しみ、種々の苦しいことにあたって苦しみ、(いっしょに住むことによって)生じてくる種々の義務に対しては、自らそれに参加する。比丘よ、これが人によってもち去られることなのである。」(長尾雅人・工藤成樹共訳)
となっている。

すみません。佐倉哲氏がそのときの必要に応じてもっとも適切な形で要約引用したものを、不注意にも勝手に原文だとおもって孫引きしたおれが軽率でした。