ブッダとキリストの間なら、コミュニケーションがとれる
他人とコミュニケーションをとるのはほぼ不可能だとおもう。
「ブッダとキリストの間なら、コミュニケーションがとれる」このレベルのことを、簡単にできるかのように装えば、毎々苦い後味が残るのは当然だ。
たとえ共同幻想に首まで浸かろうと、気分良く夢を見続けるのは誰にとっても無理な話だとおもう。
コミュニケーション自体の困難さという問題。
相手とコミュニケーションがとれてないという辛く寂しい実感は各自に本当は明々白々なので、その慰撫策として「いい天気ですねえ」「ほんといい天気」と言い合う微温的共感から始まって神を信じる者同士の一体感まで、実に様々な方法が発明されたのだとおもう。残念ながら解決策にはほとんどなってないが。
少なくともおれは日々そう感じる。おれは相手を本当には理解できないし相手も同様だと感じている。
十分ではなくてもそのつど必要な程度には理解しあっている、その証拠に社会は日々正常に機能しているではないかとおもうのは、われなべにとじぶた式の幻想のコミュニケーションをまともなシロモノとみなしているからだ。
実際、幻想のコミュニケーションこそ社会を支えている文化だというのが世間のスタンスだ。
今回の記事は「それはぜんぜん違う。あんたらもほんとは知ってるでしょうに」と注意を喚起したものだ。
スマナサーラ長老に、みんなで同じ蜂蜜をなめて「甘いね」「甘いね」と同じことを言い合っても各人の感じた甘さは同じじゃないという意味の説法がある。コミュニケーションに関する、この上ない重要な指摘だとおもう。
(過去記事統合編集再録)
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