哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

自分で良いことをすると、人の悪いことが目について腹がたつ(なぜ善人は救われにくいのか)

澤木興道老師の言葉「禅に聞け」 櫛谷宗則編より)
自分で良いことをすると、人の悪いことが目について腹がたつ。自分で悪いことをすると、尻こそばゆいからソロッとしておる。 ---人間は金勘定ばかりでなくすべてに打算的だから、その辺、万事割引したり割増したりする。

どれだけ善いことをしても人間のすることなら悪い。
人に物をやれば「ヤッタ、ヤッタ」と忘れられぬ。修行すれば「修行した。修行した」、善いことをすれば「善いことをした。善いことをした」と忘れられぬ。
 では悪いことをなすべきか、
---善いことをしてすら、悪い。悪いことをすれば、なおさら悪い。

(以上、引用終。)

 与えた愛をいつまでも「アタエタ、アタエタ」と覚えてるからいけないんだよ。
なるべく悪をなさず、なるべく善をなし、なした善はなるべくはやく忘れましょう。





昔、禅寺に通って坐禅し提唱を聴いた終わりなどに皆で声をそろえて「願わくばこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし我らと衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」と唱え(させられ)た。
これは、なした善行を速やかに手放し忘れるための優れた智慧だと今ならわかる。さもないとせっかくなした善さえ悪に変わってしまうからだ。

当時のおれはといえば「私のこの善行の果報をあらゆる人々に分け与えてください」なんてことは、まったく願えなかった。(この果報はおれの権利やん。自分の取り分減らして関係ないやつらに分け与える余裕なんかあるかー)とおもっていた。「俺、俺のもの」が災いして、わずかばかりの善業も自分でソッコー悪業に変えていた。



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