哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

無門関第19「平常心是道」


「平常心是道」は馬祖道一の名句ですが、公案になっています。

南泉と趙州の問答。


趙州問う「如何なるか是れ道」
南泉云く「平常心是れ道」
州云く「還って趣向すべきや否や」
泉云く「向わんと擬すれば即ちそむく」
州云く「擬せずんば争でか是れ道なることを知らん」
泉云く「道は知にも属せず不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不擬の道に達せば、猶太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈に強いて是非すべけんや」
州、言下に於て頓悟す。

(試訳)
趙州問う「どんなものが道ですか」

南泉云く「平常心が道だ」

州云く「平常心をめざすべきですか」

泉云く「めざすと、失敗する」

州云く「めざさなければ、どうして道だと分かるんですか

泉云く「道は、分かるとか分からないとかではない。分かったと思っても、それは妄想にすぎない。分からないのはたんなる無知だ。もし本当に道に達すれば、あらゆる迷いはきれいさっぱり消えてしまう。こんな議論をする余地もないのだ」

趙州はたちまち悟った。



趙州の的確な質問がさえてますね。

質問者はこうでないといけません。

師匠の南泉和尚も答える甲斐があったでしょう。

この時、南泉48歳、趙州18歳くらいとのこと。





趙州、言下に於て頓悟す…えらい簡単みたいだけど、もう修行もいらんという「そのまま主義」とは違うんですね、これが。


「平常心是れ道」を趙州、たとい悟るも、更に参ずること30年 。

(無門関第19)





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