哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

至道無難 放下着

次は五祖弘忍、その次は四祖道信ですが、残念ながら、ぜんぜん知りません。
三祖僧燦の「信心銘」は好きなのでちょっとだけ紹介します。


至道無難唯嫌揀擇
但莫憎愛洞然明白
毫釐有差天地懸隔
(試訳)
悟ることは簡単だ。
えり好みさえしなければいいのだ。

憎悪や愛着を起こさなければ、
世界はなんの問題もない。

しかし、最初髪の毛1本ほど間違うと、
最後には天と地ほど離れてしまう。






さて、法系を順にさかのぼるのは、このへんで止めておきます(正直、知らないことだらけで、もうきついです)。


「なんかおもしろい禅問答があったら、おしえてください」とリクエストしてもらったのを幸い、これからはランダムにいかせてもらいます。

次の問答なんか、ちょっとおもしろいと思います。

僧あり。趙州和尚に問う。
「一物不将来の時如何?」

わたしはこだわりを一つも持っていない。
どうです?悟りの境地と認めますか?


趙州曰く
「放下着!」

捨ててしまえ!

僧曰く
「一物不将来、箇の何をか放下せん?」

(すでに何も持っていない。
いったい何を捨てろというのか?


趙州曰く
「恁麼ならば担取し去れ!」

そんなに大事なら、背負って帰れ!

これを鉄眼禅師が解説して、
一物不将来と質問できるこの僧は、すでに無念無心の高い境地に至っている。

しかし、(これで自分は悟ったぞ)と思って、趙州に問うている。

趙州はそれがだと知って、このように答えたのだ。

この「放下着」を自分のものにできれば、初めて本当の悟りに至り、趙州と相まみえることができよう。

よくよく工夫して、この境地にまで至らなければならぬ。

…あやまって野狐の窟に入ってはいけない。

(鉄眼禅師仮名法語より該当部分抜書試訳)

¬鄂寛箸聖者になるには、間にある深くて暗い溝をジャンプして越えなければならない。


(一物不将来云々の追記 061018)
鉄眼和尚はこの質問者の心の状態を以下のように説明しています。非常に親切です。
「善悪の念もおこらず、無記の心にもならず、はれたる秋の空の如く、とぎたる鏡を台にのせたるが如く、心虚空にひとしくして、法界むねのうちにあるがごとくおぼえて、そのむねのすずしきこと、たとえていふべきやうもなくおぼゆる事あり。これははや坐禅を過半成就せるすがたなり。これを禅宗にては打成一片といひ、または一色辺といひ、大死底の人ともいひ、普賢の境界ともいふ。かようのことしばらくもあれば、初心の人ははやさとりて、釈迦、達摩にもひとしきかとおもへり。これ大なるあやまりなり。」
これは、日の出前の薄暗い状態で、まだ太陽(真の悟り)は現れていない。ここで満足してしまうと暗い野狐の窟に入って出て来れなくなる。と鉄眼和尚は教えている。






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座頭市」(1989年勝新太郎製作、監督、脚本、出演)中佳作。一部分で先駆的な所あり。

「ラジオの時間」上佳作