佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その46」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ) - YouTube
日本はね、今もう、そういうことをまあ皆隠す時代になっております。死を見ないというそういう文化がだんだん浸透してきて……
人が死ぬということを忘れよう忘れようという文化ばっかりなので……
(1) 比丘が、死体を捨てる墓地に捨ててある、死んで一日経ったのでも、死んで二日経ったのでも、死んで三日経ったのでも、腹が膨れ、醜い緑色をして、膿が気味悪く流れている死骸を見るように、その比丘は「この体もこのような状態があり、当たり前にこのようなことがある。このようなことから逃れられない」と、このように引き比べて見ます。このように普段から比丘が体を熟慮して見ているのは、内部の体もあり、外部の体もあり、内部と外部の体であることもあります。
そして平素からダンマを熟慮して見る人が、(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマ、(この)体の中で(体が)衰える原因であるダンマ、体の中に(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る時の、彼の「体がある」というサティ(想起)は、知識のためだけ、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、本当は、彼は渇望とディッティが住めない人で、世界の何にも執着しません。
比丘のみなさん。普段から体の中の体を熟慮して見える人と言われる比丘は、このようです。
[引用終]
(2) 比丘のみなさん。まだあります。比丘は、死体捨て場である墓地に捨てられた死骸を、カラスの群れがつつき、ハゲコウの群れがつつき、ハゲタカの群れがつつき、犬の群れが喰い、狐の群れが喰い、ウジ虫の群れが喰っているのを見るように、「この体もこのような状態があり、このようなのは当たり前だ。このようなのを避けることはできない」と、この体と引き比べて見ます。…
(3) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が、死体捨て場である墓地に捨ててある、肉と血があり、まだ腱で繋がっている死骸を見ると、彼は「この体も、当たり前にこのようになり、このような状態がある。このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。…
(4) 比丘のみなさん。まだあります。比丘は死体捨て場である墓地に捨ててある、肉はないけれど血で汚れ、まだ腱で繋がっている死骸を見て、彼は「この体も、当たり前にこのようになり、このような状況がある。このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見るべきです。…
(5) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、血も肉もないけれど、まだ繋いでいる腱がある死骸を見ると、彼は「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見るべきです。…
(6) 比丘のみなさん。まだあります。死体捨て場である墓地に捨ててある死骸を、繋いでいる腱がなく、手の骨は一方に、足の骨はもう一方に、脚の骨は一方に、腕の骨は一方に、腰の骨は一方に、背骨は一方に、肋骨は一方に、胸骨は一方に、肩甲骨は一方に、喉の骨は一方に、顎の骨は一方に、歯骨は一方に、頭蓋骨は一方に、バラバラに散らばっている骨を見ると、彼はこの体を「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。…
(7) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、ほら貝のように白い沢山の骨の欠片を見ると、彼は「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。…
(8) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、一年以上散らばって山になっているたくさんの骨を見るように、彼は「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。…
(9) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、細かい粉になった骨たくさんの骨を見ると、彼は、「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見ます。比丘が普通に体を熟慮して見ているのは、内部の体もあり、外部の体もあり、内部と外部の体であることもあります。
そして平素からダンマを熟慮して見る人が、(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマ、(この)体の中で(体が)衰える原因であるダンマ、体の中に(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る時の、彼の「体がある」というサティ(想起)は、知識のためだけ、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、本当は、彼は渇望とディッティが住めない人で、世界の何にも執着しません。(10巻325頁274項)
そういうタチ悪い嘘を自分につくから、自他いずれも幸福にできず醜く生死する破目にずっとなってきてる。
一息截断、両眼永閉の端的に向かって打坐
とある。
今、アーナーパーナサティ(呼吸の気づき)の中で、この教えを実行して効果があった。
おれは両眼永閉の端的に向かって
呼吸瞑想した。
このままほんとに死ぬかもしれないと感じる。
それでもいいと覚悟した。
すぐ意識が強い集中状態になり、
世界のすべての音が消えた。
その世界を非常に明るい光が満たした。
不思議なことが起こる。
おれは、それらの美麗な現象に意識を
もっていかれそうになり、そのたび
サティを呼吸に引き戻した。
蠱惑的な種種の奇特は
瞑想につきものの
神経回路のスライトエラー
でしかなく、
それに気を奪われたら即失敗する。
坐禅用心記に
或いは室外通見し、
或いは身中通見し、
或いは仏身を見、
或いは菩薩を見、
或いは知見を起こし、
或いは経論に通利す、
是の如き等種種の奇特、種種の異相は、
悉く是、念息不調の病なり
などと注意されている。
ふだん知っていても、
いざとなって忘れたらなんにもならない。
坐禅用心記は、昔十代のころに読んだ。
当時は純禅を祈祷で汚したことや数息観に反発し
「文が説明的でくどい」と感じ、
道元禅師の格式高い普勧坐禅儀ほど感心せず
無視してしまった。
しかし、
一息截断、両眼永閉の端的に向かって打坐
の一句だけは妙に自分の心にひっかかり心に残った。
今回ふとしたことから再読して、昔と違い強い感銘を受けた。
どうも自分がいつ死んでもおかしくない年齢と体調になり、ようやく
一息截断、両眼永閉の端的に向かって打坐
を身読できたらしい。…おれは、血が出るまで尻を鞭打たれないと
一歩を踏み出そうともしない鈍馬なのだ。
※
ちなみに、 瑩山禅師・坐禅用心記
一息截断、両眼永閉の端的に向かって打坐
の教えの大元は、ブッダの死随念説法
にあるとおもう。