哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

非思量 思考の仕方のチェンジ

 哲学は自然の探求→人生の理想の探求→個人の安心の探求と進んだ。これは人類の決まった思考パターンだとおもう。

科学はこのパターンをもう一度綿密にやり直して、いま最初の段階「自然の探求」の中頃を過ぎたあたりまで進んでいる。
当然この後、人生の理想の探求→個人の安心の探求と思考をチェンジしつつ進む。

そして毎回最後に、仏教の門の前に立つことになる。

思考のチェンジを何度やっても、この門は開かず、閉じたパターンの中を思考がループするだけだ。




 出口のない堂々巡りからブレークスルーするには
思考のチェンジ
ではなく

「思考の仕方」のチェンジ

が実行されなければならない。




「思考の仕方」のチェンジとは
不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり
道元 正法眼蔵坐禅箴)

この非思量のこと。
非思量とは、世間が怠け心で正解だと思ってる「何も考えるな」じゃない。
「何も考えるな」では教えのピントがまるっきり合っておらず、あほがあほをこじらせるイタイ結果しか生じない。

非思量は、
今ここに気づく
=ヴィパッサナー実践
のことだ。

これは難しいことを全く要求してない。
だって、一番端的に言えば自分が今してる吸う息吐く息に気づけばいいだけなんだから。




 呼吸を意識するのは、誰でも例外なく即座にできる究極の易行なので、かえってみんな頭からバカにして信じず、信じない自分がなんとなく勝手に5分と続かない難行にしてるだけだ。
これがために自業自得果で一生を忙しく怠け過ごして、空しく死ぬ他なくなる。
「あはれといふも、なかなかおろかなり」。



(過去記事増補編集再録)