哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

人間の嘘つき能力の信じがたい高さに驚嘆する

 ブッダは深遠だが明快でシンプルで矛盾のない教えを説いた。

滅後に、弟子や信者が読み物として面白いが矛盾だらけの物語を仏説として宣伝普及させた。

大乗とは何ぞや。
文学に簒奪された仏教だ。
文学作品としては見事な出来だが、一時の慰みで、あんな読みもんでほんとに救われるわけない。



 ブッダは「筏のたとえ」を示して、彼岸に至ればわたしの教えも捨てよと説いた。
「三乗十二分教は、不浄を拭う故紙なり」は、なお大乗運動内改革者の妥協の言で「筏のたとえ」の劣化版だ。
冒頭如是我聞の自己正当化から始まるゴミの山は端的に不浄故紙で、ほとんどブッダの教えの記録ではないからだ。
やがて、
人はありのままでよい(大嫌いな修行の否定)
世界もこのままでよい(大好きな現状大肯定)
と図々しく開き直り、此岸で筏を捨てた。




 人間の愚行は、いつの時代もどこの国でも同じパターンで繰り返されている。
仏説の退廃運動はインド⇒中国⇒日本と時・所を替え、多少の揺り戻しはあるものの基本消滅するまで、教えが劣化再生産され続ける。
インドでは密教ヒンズー教化して実質的に消滅した。
中国でも日本でも早くからまじないと神頼みに劣化変質している。









 「多少の揺り戻しはある」と上述したその最大のものが禅宗運動だ。
おれは理由は分からなかったが最初から禅宗に強く魅かれ、六祖壇経を初めとして祖師語録を耽読した。
あとからブッダの教えにもっとも似てたから魅かれていたと気づいた。



 この動画、花園大学名誉教授沖本克己先生による「禅宗史」講義で、馬祖道一・石頭希遷以前はすべて嘘混じりの神話の類に過ぎないと聞いて少なからずショックを受けた。
いや昔からチラホラうわさ話のように耳に入って、信じたくない気持ちがあり曖昧なまま過ごし、改めてやっぱりほんとだったかと。

大好きな六祖壇経も三祖信心銘も、語録のみならずその人物の存在すらほぼ後世のねつ造とは、切ない話で、人間の嘘をつく能力の信じがたい高さに驚嘆する。
いやすでに大乗経典や聖書等の成立過程のいいかげんさから、人間はいつの時代もどこの国でも骨髄からの大ウソつきだと知ってるつもりだけど……。

正に知ってるつもりで分かってなかった。




 沖本先生は、嘘の神話も大事ですと言ってるが、危うい話だよ。頼りない話だよ。

ブッダ

 たとえたわむれにでも決して嘘をついてはならない。
嘘をつくというたった一つの罪を犯す人に犯せない罪はない。

と教えている。

嘘つきは、どんな罪でも犯せる人間だ。