哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ひとつの知られていない事実だけを、最初からくりかえし書きつづけてきた

 おれは2006年7月30日に、こう書いて自分のブログを始めた。

 世間の常識はあげ底になっている。
それも甚だしいあげ底だ。
「人は必ず死ぬ」と聞くと「そんなことは常識だ。誰でも知っている」と答えるのがそれだ。
生者必滅の理が本当に常識なら、こんなにも浅ましい世界であるはずがないのだ。

「今日から書き始めます」→http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzE0ODM4NTQ0Lmh0bWw-


 2008年12月25日には、こう書いた。

 おれのブログは唯ひとつのことを伝えたいために続けているんですが、それは「現代の隠れたナンセンス」に関することです。何度も書いてますが、また書きます。
現代の最大の隠れたナンセンスは、自分は死んでも生きているんだという幻想をほとんどの人が抱いていて、殺す者と殺される者が、この幻想を共有しているために、殺し合いが止めどなく繰り返されている事実だとおれはおもっています。

「ナンセンス! ああナンセンス極まれり」のコメント→http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzQ3Mzc1ODQ0Lmh0bWw-


 一番最近では今月19日に、パニック・スリラー映画「海底47m」(巨大な人喰いサメが泳ぎ回る海で、ケージに閉じ込められたまま水深47mの海底まで落下した姉妹の、サメの恐怖に加えて潜水病や酸素欠乏の危機を描く)を例として挙げ、こう書いた。

… 人はなぜパニック・スリラーに魅かれるのか。


人生が正にそういうものだからだ。
人は生老病死の運命を知っており、何とかしてこの深刻な極限状況から脱出したいと願っているからだ。



ケージに閉じ込められ海底まで落下…(生)
迫る酸素欠乏の危機……………………(老)
サメの恐怖や潜水病……………………(病)
挙げ句の果てサメに食い殺される……(死)



しかし大多数の人々は願っているだけで、その実なにもしない。「その瞬間(とき)」に襲われるまでの間、パニック・スリラーなど見て、のん気に過ごすだけだ。
物語では人食いサメの恐怖から生還する夢を楽しむが、現実は死という恐ろしいサメに一人の例外なく食い殺されるのに。

「人はなぜパニック・スリラーに魅かれるのか」→https://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9jeXFuaDk1Ny81ODA0NDg1OS5odG1s



多少表現は変えているが、要するに、最初から
ひとつの知られていない事実

だけをくりかえし書きつづけてきた。
それは(ブッダの真理のことばDh.6 中村 元 訳)に端的に示されている事実だ。
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう。
このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

ブッダの真理のことばDh.6「直前の記事の補足」から引用。強調処理はわたしです)


 ブッダは「世間の考えは顛倒(てんどう)している」と指摘している。
世間はその教えさえも「やはりわたしは死んでも生きてるんだ。ブッダもそう教えてるんだ」と曲解誤読するほど頑固に顛倒している。

 おれは昔、死ぬほどの煩悶を体験して、人の生にたいする盲目的執着がものすごいことを知った。
自分は死んでも生きていると思っているのに、口先だけで「人は必ず死ぬと知っています。常識です」と平気で言って、なんの痛痒も感じないのはこの盲目的執着のしわざだ。死を眼前に見るまで決して自分の不誠実に気づかないのも、この盲目的執着のしわざだ。

 スマナサーラ長老は「生きるべき?そんなこと言っていられるんですか?死ぬでしょうに。誰でも。それがほんとの智慧の、理性の、真理の言葉なんです。…それ解ってもらうと、この世の中から罪とか悪行為とかね、消えるはずなんです」と説いている。おれはじつによく理解できる。ぴんとこない人がおおぜいいるのは、自分が死ぬという事実をまだ解ってないからだ。
自分は死ぬのだとほんとに解ったら人は必ず変わると、おれは自分の体験から確信をもって言い切れる。

 「人間は死ぬ定めだ」と情報知識で得るだけでは、なんの助けにもならないと、多くの人が気づいているとおもう。知識を智慧に育てないとだめだと。




では智慧とはなんでしょう。




それは天才的な一瞬の閃きなどではなく「聞思修証を起すを智慧となす
道元・八大人覚)
つまり聞(これが情報知識)→思→修→証と油断なく持続する地道な実践のことだ。便利なshortcutはないと道元は言っている。

聞思修証。これは現代の概念で言いかえれば科学だとおもう。そして科学の現場はじつに地道なものだ。

そういう地道な実践を嫌う人は「人間はかならず死ぬ」というと「知ってるよそんなこと」と答え、さあいよいよ死ぬというその瞬間(とき)になって、知ってるつもりでいた自分の正体に気づいて絶望するか「いや、死なないんだ」と幻想にしがみつくかするのだとおもう。


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(過去記事増補編集再録)