無我なら不死だ 我と死は両立しない
我があれば死もある。
この事実にはっきりと気づくことが仏教の入り口だ。
大多数の人々は口先で「そんなこと当然だ」と言う。しかも我と死が両立できないことにも無意識だが気づいている。
それなのに次の自然な一歩
「ということは…我というのはなんかへんだぞ」
とは夢にもおもえない。
おもえないのは、死の事実を受容したふりで不正直にごまかしているからだ。
本心は口先と反対に「我がある。だから死はありえない」と、初めから破綻した考えに凝り固まっている。死の否定できないことは自明だからだ。
大多数の人々は、我そのものを疑うという逆転の発想ができないために追い詰められた結果、背に腹はかえられぬ切実が事実も道理も押しのけてどんな無法でも通してしまう。
すなわち(自分だけは死んでも生きている)と妄信する。
不滅の魂や大我や唯一神やらはそのための道具に過ぎない。
この自分で建てた妄信の壁に阻まれて、ブッダの教えは処世訓のレベル以上わからず、ヴィパッサナー実践の意味もかたきしわからないのでやる気も皆無。
もっともこれはこれで無理のない話だ。「邪に育った心は、自分で自分に仇敵のように振舞う」というブッダの言葉どおり。
無我は、死ぬその人がいないから、死もない。
無我が仏教の核心だ。
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