哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

「安心なんてないさ」という安心

御法語(法然上人行状画図)より引用します。

おほよそ佛教おほしといへども、所詮戒定慧の三学をばすぎず。所請小乗の戒定慧、大乗の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧也。
しかるに、わがこの身は、戒行にをひて、一戒をもたもたず。禅定にをいて、一もこれをえず。
人師釈して、尸羅清浄ならざれば三味現前せずといへり。
凡夫の心は、物にしたがひてうつりやすし、たとへば猿猴の枝に、つたふがごとし。まことに散乱して、動じやすく、一心しづまりがたし。無漏の正智、なにゝよりてかおこらんや。
若無漏の智劒なくば、いかでか、悪行煩悩のきづなをたゝんや。悪業煩悩のきづなをたゝずば、なんぞ生死繋縛の身を、解脱することをえんや。
かなしきかな、かなしきかな、いかゞせん、いかゞせん。

こゝに我等如きは、すでに戒定慧の三学の器にあらず。
この三学のほかに、我心に相応する法門ありや。我身に堪たる修行やあると、よろづの智者にもとめ、諸々の学者に、とふらひしに、をしふるに人もなく、しめすに輩もなし。
然間なげきなげき、教蔵にいり、かなしみかなしみ、聖教にむかひて、手づからみづから、ひらき見しに、善導和尚の勧経の疏の、一心専念彌陀名号行住坐臥不問時節久近念念不捨者是名正宗之業順彼佛願故。といふ文を見得てのち、我等がごとくの、無智の身は偏にこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因に備べし、
たゞ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく彌陀の弘願に順ぜり。順彼佛願故の文、ふかく魂にそみ、心にとどめたるなり。

(引用終。強調は私です)



 不出世の天才法然上人が、親鸞聖人が、またそもそも宗祖ゴータマ・ブッダが命がけ必死の求道によってはじめて覚醒している。





 法然上人の言葉を(一言芳談117)より、現代語試訳で引用します。

 法然上人は、
「ああ、今度こそ浄土にいきたいなあ」
といつも言っていた。
不安になった弟子が
「あなたほどの人がそんな程度では、わたしたちはどうしたらいいんですか」
と訊いた。
上人は笑って
「ほんとに浄土にいくまでは、この気持ちが消えるわけないさ」

《原文》
つねの御詞に云、あはれこの度しおほせばやなと、その時乗願房申さく、上人だにも斯樣に不定げなる仰せの候はんには、ましてその余の人はいかが候ふべきと。その時上人うちわらひて、のたまはく、蓮台にのらんまでは、いかでかこの思ひはたえ候ふべき、云々。
(引用終)

上人うちわらひて」というところがすばらしい。

安心できないことに悩む弟子と、
(安心できないから良いんだと気づけよおまえ)と破顔する上人。
法然上人の境涯が弟子のとはまるっきり違うことがわかる。
この話をふまえると、次の表現上は矛盾した法然上人の教えの真意がはっきり理解できるとおもいます。



往生を期せん人は決定の信をとりて、しかもあひはげむべきなり。
(一言芳談131より)


一念十念に往生をすといへばとて、念佛を疎相に申ば、信が行をさまたぐるなり。念々不捨者といへばとて、一念十念を不定におもふは、行が信をさまたぐるなり。信をば一念に生まると取りて、行をば一形にはげむべし。又一念を不定に思ふは、念々の念佛ごとに不信の念佛になるなり。

(一言芳談26並びに法然上人行状画図法語より)

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