哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ほんとに空念仏でOKか?

一遍上人空也上人に言及した有名な手紙も載せときます。

…むかし、空也上人へ、ある人、念佛はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の「撰集抄」に載せられたり。
是れ誠に金言なり。
念佛の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善惡の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極樂を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念佛こそ、彌陀超世の本願に尤もかなひ候へ。
かやうに打ちあげ打ちあげ唱ふれば、佛もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。
善惡の境界、皆淨土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。
よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念佛ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。
またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて、愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念佛し給ふべし。

念佛は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。

彌陀の本願には缺けたる事もなく、餘れる事もなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念佛し給ふべし。南無阿彌陀佛。
(一遍「興願僧都、念仏の安心を尋ね申されけるに書きしめしたまふ御返事」より。 文強調は私です)

 

 


禅機に裏打ちされた念仏って感じがする。

 

しかし、

 

念佛は…安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。

 

は、昨日の記事で引用した

 

決定往生の信たらずとも、口にまかせて称せば往生すべし。

 

と同じ主張だ。

 

要するに

 

空念仏でOK

 

ということで、極めて危うい主張だとおもう。

 

実際には一遍の体得した禅的境地でのみ成立する申し様だとおもう。

信仰心なしで、口先だけで念仏を唱えて、一遍の境地に達した者がいたとは思えないのだ。

 

 

 

 

 

 盆踊りの元祖は一遍教団が全国に流行させた念仏踊りだという。

踊りながらナンマイダーを何時間も唱え続けて恍惚としたトランス状態に入っても、それはブッダの理性に裏打ちされた仏道とは真逆の道だ。

手間暇かけてるが、手っ取り早く酒飲んで酔っ払うのと変わらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  (My Favorite Songs)  

 エルトン・ジョンといえば、
「僕の歌は君の歌」…やさしい、いい曲だ。


Elton John - Your Song (Top Of The Pops 1971)

 


Elton John - Elton John - Honky Cat (Estadio do Flamengo, Rio, Brazil 1995)

 

 

(過去記事統合増補編集再録)