聖書 終末ビジョンに収斂する編集
キリスト教聖書を読んで痛感するのは、終末観の強烈さだ。
おれは中学生のころに、できごころで聖書を読みはじめて、気づいたら終末のビジョンにとりつかれていた。
聖書は、まじめに読む者すべてを終末ビジョンの世界に引きずりこむための、きわめて巧妙で綿密な編集がなされている。
(途中はすっ飛ばして、結論をいうと)
これは、「ひとは死んでも自分は死なない」と信じて酷睡している多くの人々を覚醒に導くための、次善の策になっているとおれは思う。
最善策は初善・中善・終善の釈尊のやり方だが、酷睡者には効きが遅い。
しかし、生病老死の森厳な事実が前提としてあるから、人はおのが罪に懊悩することができ、やがて真理に目覚めることもできるのだ。
唯一絶対人格神の計画を前提とする終末論は著効性だが、副作用も激烈に出がちだ。おれが次善策とみなすゆえんだ。
また、十字架と復活はパウロの神学で、イエスの教えとは少し違うと思う。
(ちなみに、放逸な人達はいずれにも無縁で、副作用の心配もないし、覚醒もない。馬の耳に念仏で、聴くことができないからだ)
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(過去記事増補編集再録)