聖書を読んで痛感するのは、終末観の強烈さだ。
おれは中学生のころに、創世記から読みはじめて、
気づいたら終末のビジョンにとりつかれていた。
聖書は、真剣に読む者すべてを終末ビジョンの世界に引っぱりこむ、巧妙で綿密な編集がなされている。
(途中はすっ飛ばして、結論をいうと)
これは、酷睡している多くの人々を覚醒に導くための、次善の策になっているとおれは思う。
唯一絶対人格神の計画を前提とする終末論は著効性だが、副作用も激烈に出がちだ。
おれが次善策とみなすゆえんだ。
最善策は初善・中善・終善の釈尊のやり方だが、「ひとは死んでも自分は死なない」と信じている酷睡者には効きが遅い。
しかし、生病老死の森厳な事実が前提としてあるから、人はおのが貪瞋痴に懊悩することができ、やがて真理に目覚めることもできるのだ。
また、十字架と復活はパウロの神学で、イエスの教えとは少し違うと思う。
ちなみに、放逸な人達はいずれにも無縁で、
副作用の心配もないし、
覚醒もない。
馬の耳に念仏で、右から左に抜けて留まらず
聴くことができないからだ。
(おまけ)
ドノヴァン。
「サンシャイン・スーパーマン」
独特のムードのある奇妙な曲調が非常に好きだった。
もう1曲。「メロー・イエロー」
こういった独特の魅力を持った奇妙な音楽を作れるのは、ドノヴァンと全盛期のビートルズくらいだとおもう。
(過去記事統合増補編集再録)