哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

滅びに至る多くの人々のために嘆いたりはしない

(聖書 エズラ記6・33,34 新共同訳)より引用します。

 

信頼せよ。恐れるな。今の時代に焦ってむなしいことを考えるな。 そうすれば終末の時が来ても慌てることはない

(引用終)

 

 

『終末の時』ってなんだろう? それは、人類全体にもいつか来るだろうが、個人個人に来るものだと、おれはかってに思っている。 おれが強い関心を持つ『終末の時』は、個人に来るほうのだ。

 

 

(同 エズラ記7・59~61)より引用します。

 

手に入れにくいものを持っている人は、いくらでも手に入るものを持っている人よりも大きな喜びを味わうものである。 わたしも、約束した新しい創造を行うときに、わずかしかいなくとも救われる人たちのことを喜ぶだろう。彼らは今やわたしの栄光を優先させ、今やわたしの名をたたえるようになったからである。 わたしは、滅びに至る多くの人々のために嘆いたりはしない。彼らは、霧のようであり、炎や煙に等しい者である。焼かれて、燃え上がり、消えてしまったのだ。

(引用終)

 

 

 人は自分がしてきたように、人にもされるものだ。 多くの人々が、葬式が済めばあっという間に社会から忘れ去られる。 彼らは、霧のようであり、炎や煙に等しい者である。焼かれて、燃え上がり、消えてしまったのだというように。

 

神も、滅びに至る多くの人々のために嘆いたりはしないと断言している。

それはなぜか。

なぜ仲間だった人々の関心からさえ火葬場の煙のように消えてしまうのか。

それは誰のせいか。

 

神は、全員救われるなどと始めから一言も言っていない。

ちなみに、ブッダもまったく言っていない。

無責任な信徒達が、全員救うとか、すでに救われているとか与太話を繰り返してるだけだ。

 

「マタイ福音書3・10」にはこう書かれている。

 

斧は既に木の根元に置かれている。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 では、わたしたちはどうすればよいのですか

 

 

 

 

 

(過去記事編集再録)