「米中覇権」「最終戦争」などの終末思想を仏教の視点から読み解く - YouTube
〔感想〕
『終末の時』ってなんだろう? それは、人類全体にもいつか来るだろうが、個人個人に来るものだと、おれはかってに思ってる。 おれが強い関心を持つ『終末の時』は、個人に来るほうのだ。
(聖書 エズラ記6・33,34 新共同訳)より引用します。
信頼せよ。恐れるな。今の時代に焦ってむなしいことを考えるな。 そうすれば終末の時が来ても慌てることはない。
(同 7・59~61)より引用します。
手に入れにくいものを持っている人は、いくらでも手に入るものを持っている人よりも大きな喜びを味わうものである。 わたしも、約束した新しい創造を行うときに、わずかしかいなくとも救われる人たちのことを喜ぶだろう。彼らは今やわたしの栄光を優先させ、今やわたしの名をたたえるようになったからである。 わたしは、滅びに至る多くの人々のために嘆いたりはしない。彼らは、霧のようであり、炎や煙に等しい者である。焼かれて、燃え上がり、消えてしまったのだ。
(引用終)
人は自分がしてきたように、人にもされるものだ。 多くの人々が、葬式が済めばあっという間に社会から忘れ去られる。 彼らは、霧のようであり、炎や煙に等しい者である。焼かれて、燃え上がり、消えてしまったのだというように。
神も、滅びに至る多くの人々のために嘆いたりしないと断言してる。
それはなぜか。
なぜ仲間だった人々の関心からさえ火葬場の煙のように消えてしまうのか。
それは誰のせいか。
神は、全員救われるなどと始めから一言も言ってない。
ちなみに、ブッダもまったく言ってない。
無責任な信徒達が、全員救うとか、すでに救われているとか与太話を繰り返してるだけだ。
「マタイ福音書3・10」にはこう書かれてる。
斧は既に木の根元に置かれている。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
聖書を読んで痛感するのは、終末観の強烈さだ。
おれは中学生のころに、創世記から読みはじめて、
気づいたら終末のビジョンにとりつかれてた。
聖書は、真剣に読む者すべてを終末ビジョンの世界に引っぱりこむ、巧妙で綿密な編集がなされてる。
これは、酷睡してる多くの人々を覚醒に導くための、次善の策になってるとおれは思う。
ただし、唯一絶対人格神の計画を前提とする終末論は著効性だが、激烈な副作用が出る。
おれが次善策とみなすゆえんだ。
最善策は初善・中善・終善のブッダのやり方だが、「ひとは死んでも自分は死なない」と信じてる多くの酷睡者に効きが遅い。
とはいえ、生病老死の森厳な事実が前提としてあるから、人はおのが貪瞋痴に懊悩することができ、やがて真理に目覚めることもできるのだ。
また、十字架と復活はパウロの神学で、イエスの教えとは少し違うと思う。
放逸な人達はいずれにも無縁だ。
副作用の心配もなければ、覚醒もない。
馬の耳に念仏で、一方から他方に抜けて留まらず
なにも聴かず煙のように消えるからだ。
では、わたしたちはどうすればよいのですか
(My Favorite Songs)
Who are you?
Who, who, who, who?
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