哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

輪廻転生とは何か

ターン・プッタタート法話「輪廻転生とは何か」より
 愚かさを捏ね固めて自分を作って「俺」と呼び、そして執着し、心はそのような考えや感覚を作り出します。つまり欲しがる自分、欲しくて行動する人、望みどおりに得る人、そしてまた欲しくなり、輪になっています。今心の中にある輪廻であり、生死の繰り返しです。毎日、一日で幾つの輪廻があるか分かりません。

 これが、輪廻とは何か、生死の繰り返しとは何か、輪廻の中を泳ぎ回るとは何か、という問いの答です。みなさんに、今は非常に落ちてしまった仏教教団の名誉を回復できる、十分な知識があることを望みます。…

 みなさんがまだ輪廻の流れに沈んでいて、それを喜んでいるなら、仏教教団員の価値はまったくありません。こう言うとすぐに落胆して、腹を立てることもあります。しかし私は他に言い様がないので、真実を言うしかありません。まだ心が輪廻の流れに溺れていれば、つまり煩悩-行動-そしてカルマの結果(報い)、そして煩悩-行動-そしてカルマの結果と、毎日こうなっているなら、ブッダの弟子の意味は少しもありません。
[強調処理はわたしです。引用終]







 ターン・プッタタートは、輪廻とは苦の呼び名だと教えている。
しかし大多数の人々は、輪廻を楽だと思い込み熱烈にまっしぐらに欲しがっている。
菩薩やブッダまでも生き返る文学を作って、それを喜んで信じるほど歪曲顛倒して輪廻を望んでいる。
愚かさを捏ね固めて「俺」を作った瞬間から、苦を楽だと錯感受する罠に掛かり、疑わなくなったからだ。
だから、苦そのものの輪廻をみんなは夢・希望と呼んでいる。

空気を読んで、周りの人間達に波長を合わせ、感受までも同調する。圧倒的多数派の一員である「俺」を作り自分と区別をつかなくして気休めにする。
そんな世渡りの術にいくら下達したって、さあいよいよ死ぬというその時に1ミリの助けにもならず、たった独りで死ぬ他ないことを忘れてる。

 世間の大多数は、自分達に永遠不滅のタマシーがあって、それがあちこち引越しするとおもっている。
これって、どんな未開土人でももってる我執の妄想に過ぎない。
それをなにが輪廻転生だ、そんなたいそうなもんかよ。




 ブッダはときに未開土人の我執妄想を見事に換骨奪胎した「有意義な輪廻転生」を説いた。それは無我を前提としたパワーの変化論だ。妄想の核にある我執を、ブッダは引っこ抜き無我に差し換えたのだ。
この無我輪廻転生説こそ、余人をもって替える事のまったくできないブッダの独創だ。
無我が分からなければ無常も決して分からない。無常なしに輪廻転生はない。
無常は認めるが無我は認めない…そんな話は成立しませんよ。


[過去記事統合増補編集再録]