哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

坐禅は、根本幻想に気づくためにやる。

 坐禅の目的は「自分意識」は幻想だと明晰判明に気づくことだ。
理屈で無我だと理解しても、それだけでは不十分だ。


5MNT MEDITATION

 自分は死んでも生きているとおもっているうちは、無我ではなく我執だ。
不滅の魂、大我、眞我、みな捨てられない我執の言い換えにすぎない。

それが間違いだとはっきりと気づけば無我だ。これがひとつの表現。

諸行無常だとはっきり気づく。

一切行苦だとはっきり気づく。

これらみな、同じひとつの真実(無我)を別の角度から表現したものだ。

[関連記事]→「我思う、故に我あり」と無我の関係


How to meditarion 2

 理屈で無我だと理解しても、それだけでは不十分だ。と何度も何度も確認する必要がある。人はこれを実にすぐ忘れるからだ。
「肉体は自分ではなく、精神の住まいだ」と聞くと、精神=不滅の魂=自分は死んでも生きてると、観念遊戯が自動的に始まり、たわいなく未開人に退行する。
坐禅も自分の妄想の飾りにするくらいなら、徹底した我利我利亡者のほうがまだましだと、「宝積経」には出ている

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(過去記事増補再録)