ヴィパッサナーに必要な特別な活力は、苦聖諦を学ぶことでしか得ることができない。
「苦聖諦」は月を指す指。指だけ詳細に研究するが、ほんとうは月である苦聖諦を一度も見ようとしない人が多い。
悟るためにヴィパッサナーを実践してもたちまち挫折するのは、苦聖諦の理解が言葉だけで内容が無いからだ。
悟るためにヴィパッサナーを実践してもたちまち挫折するのは、苦聖諦の理解が言葉だけで内容が無いからだ。
少林窟法語坐禅の心得226より引用
(飯田トウ隠老師は)医業專一の時、コレラの大流行により日々死者七百名を見る。忽ち大無常観に襲われ、広島県三原市にある仏通寺 香川寛量会下に身を投じ、夜は猛虎岩にて命がけの打坐。わずか六ヶ月で一隻眼(心眼)を体得された(引用終)
この「忽ち大無常観に襲われ」が言葉でなく内容で苦聖諦を学んだところだ。
だから、ブッダとは生まれた時代も国も人種も異にして、仏説も苦聖諦も聞いたことがなくても、人生において苦聖諦の内容を体得した人は少なくない。
当たり前のことだが、言葉でなく内容を学ぶ必要がある。 |