哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

怒りは猛毒

スマナサーラ長老 パティパダー巻頭法話No.127より引用します)
 皆、怒りを軽く見ているのです。
怒りをなくす方法を教えて下さいと、軽々しく頼むのです。そう頼む人に限って、自我の評価は高過ぎです。手に負えないほど高慢です。とは言っても、怒りは猛毒であると理解することは大変重要です。怒りは人の喜びも幸福も破壊するものです。健康を壊し、短命にするのです。体力も才能も知識もその他の能力も、減らして破壊します。怒りには一欠片も良い結果はないのです。断じて怒ってはならない。それには何の例外もないし、言い訳も通じません。
(引用終)






 怒りは百劫の積徳を一瞬で破壊すると聞いている。

 怒るべき時に怒らない奴は男らしくない、意気地なし、腰抜け、弱虫と散々に言われるが、それは言うほうが馬鹿で無知だ。「怒るべき時」なんて無い。

 とにかく怒っちゃダメ。どんな理由があろうと怒ったらアウト、例外はない。言い訳もなりたたない。

 ブッダが、パーラージカを犯したスディナ比丘を叱責した時や、教団トップの座を譲れとせまったデーヴァダッタを退けた時など(…ちょっと怒ってるやん)と思っても、それは下衆の勘ぐりです。



 完全なる幸福を目指す人は、次の問題に挑戦するのです。
その問題は、仏教用語で「執着(saññojana)」と言います。枷(かせ)という意味です。結・結縛という訳語もあります。有身見・疑・戒禁取・欲・怒り・色貪・無色貪・慢・悼挙・無明という十種類の枷があります。そのリストの中で、五番目が怒りです。悟りの第一ステージ、預流果で最初の三つの枷が消え、第二のステージ一来果で四と五の枷が弱くなる。第三のステージ不還果で四と五が消える。第四のステージ阿羅漢果で残り五つは消える。悟りの第三ステージに達しない限り、怒りと欲はつきまとうのです。誤解してはいけないことがあります。預流果に悟った人も、聖者の一員です。しかし一般人と同じく欲と怒りに溺れて、罪を犯しながらだらしない生き方をするわけではありません。怒りと欲が智慧の攻撃を受けているので、息も絶え絶えの状態です。決して発病はしません。
(同)




 怒り感染者も預流果に達すれば、とりあえず発病はしなくなる。
一生発病しなければ、今生は治ったも同じだ。

簡単じゃないけど、めざせ第一ステージ・預流果ってことだ。

[関連記事]
怒りの毒