アッギヴェサナさん。あなたはどう思いますか。「形(つまり体)が自分の実体」とこのように言うのは、あなたの威力で「形はこうなれ。こうなってはいけない」と、そのようにできるのですか。
サッチャカアッギヴェサナは黙ってしまい、三度質問されて、
「そうではありません。ゴータマ様」と答えました。
アッギヴェサナさん。良く考えなさい。善く考えて言い直しなさい。あなたの後の言葉は、先の言葉と合わず、先の言葉は後の言葉と合いません。アッギヴェッサナさん。形は無常ですか、無常ではないですか。
「無常です。ゴータマ様」。
アッギヴェサナさん。無常なものは、苦を感じさせますか、幸福ですか。
「苦です、ゴータマ様」。
無常で苦を感じさせるものは、当たり前に変化します。それを自分のもの、自分、自分の実体と、このように見るべきですか。
「見るべきではありません」。
アッギヴェサナさん。あなたはどう思いますか。このような事態の時、あなたが苦に襲われ、苦に至り、苦に沈んでいる時、あなたはその苦を、「それは私のもの。それは私。それは私の実体」と見ますか。
「それは、そうではありません。ゴータマ様」。
アッギヴェサナさん。心材を求める人が鋭い斧を持って心材を探しに森へ行き、その森で、まだ若くて芯のない、真っ直ぐで柔らかい大きなバナナの木を見つけます。彼はそのバナナの木の根元を切り、先端を切り落とし、それから外皮を剥きますが、そこで外皮を剥いても、辺材さえ見つからないように、心材など見つかるはずがありません。
(普通の)目のある人がそのバナナの木を見ると、絶妙の熟慮をして見ます。その人が絶妙の熟慮をして見ると、そのバナナの木は当然空っぽの物であることが分かり、心材のない物だと分かります。比丘のみなさん。バナナの木に心材があろうはずはありません。
(「ブッダヴァチャナによるブッダの伝記4-5」より チュラサッチャカスッタ 中部マッジマパンナーサ 12巻429頁398項 引用終)
サッチャカアッギヴェサナは黙ってしまい、三度質問されて、
「そうではありません。ゴータマ様」と答えました。
アッギヴェサナさん。良く考えなさい。善く考えて言い直しなさい。あなたの後の言葉は、先の言葉と合わず、先の言葉は後の言葉と合いません。アッギヴェッサナさん。形は無常ですか、無常ではないですか。
「無常です。ゴータマ様」。
アッギヴェサナさん。無常なものは、苦を感じさせますか、幸福ですか。
「苦です、ゴータマ様」。
無常で苦を感じさせるものは、当たり前に変化します。それを自分のもの、自分、自分の実体と、このように見るべきですか。
「見るべきではありません」。
アッギヴェサナさん。あなたはどう思いますか。このような事態の時、あなたが苦に襲われ、苦に至り、苦に沈んでいる時、あなたはその苦を、「それは私のもの。それは私。それは私の実体」と見ますか。
「それは、そうではありません。ゴータマ様」。
アッギヴェサナさん。心材を求める人が鋭い斧を持って心材を探しに森へ行き、その森で、まだ若くて芯のない、真っ直ぐで柔らかい大きなバナナの木を見つけます。彼はそのバナナの木の根元を切り、先端を切り落とし、それから外皮を剥きますが、そこで外皮を剥いても、辺材さえ見つからないように、心材など見つかるはずがありません。
(普通の)目のある人がそのバナナの木を見ると、絶妙の熟慮をして見ます。その人が絶妙の熟慮をして見ると、そのバナナの木は当然空っぽの物であることが分かり、心材のない物だと分かります。比丘のみなさん。バナナの木に心材があろうはずはありません。
バナナの木のくだりは、この文脈ではアッギヴェサナの主張の空虚さを譬えたものです。 しかし、アッギヴェサナなんてあほの事はどうでもいい。 この優れたバナナの木の比喩は、実体のない「我」を譬えたものとして味わったほうがずっと良い、とおれはおもいます。 この身体は自分ではない。バナナの木が外皮の寄せ集めでできているように、どこにも自分は見いだせないと。