ブッダの真理のことば(中村 元 訳 岩波文庫)
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
――このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。
(ブッダの真理のことばDh.6 中村 元 訳)
知識の表現「人は必ず死にます。常識です」
智慧の表現「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう」
言葉にすれば同じですが、この間には容易に超えがたい深い断絶があります。
その証拠に釈尊の次の一句「このことわりを他の人々は知っていない」の意味が、知識レベルの人には全然わからないはずです。
世間の常識はあげ底。
それも甚だしいあげ底。
「人は必ず死ぬ」と聞くと「そんなことは常識だ。誰でも知っている」と答えるのがそれ。
生者必滅の理が本当に常識なら、こんなにも浅ましい世界であるはずがないですから。
本当に自分は死を越えられない存在だと気づけば(智慧レベル)「争いはしずまる」ことは自分の手のひらを見るように自明になります。
知識レベルにとどまっている人に、「争いはしずまる」ことをいちおう納得がいくように言葉だけで説明することもできますが、おれはそんな無駄をやりたくない。
知識でわかってもらっても、争いはしずまらないからです。
「わたしには子がある。わたしには財がある」
と思って愚かな者は悩む。
しかしすでに自己が自分のものではない。
ましてどうして子が自分のものであろうか。
どうして財が自分のものであろうか。
(ブッダの真理のことば62 中村 元 訳)
「自分は自分だ」「自分がすべてだ」と力んでも、その肝心かなめの「自分」がはなはだ怪しいのだから、幻を抱きしめているような危うさじゃないですか。
え?怪しいと思ってない!…じゃあ、あなた、今回まだキテナイのかもしれません。
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(過去記事統合編集再録)