哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

絶えることない戦争の根本原因は何ですか?

メメント・モリ(死を想え)で争いは止むのか? ダンマパダ(Dhammapada)6偈|ゆるねこ仏教オンライン講座(22 Mar 2022) - YouTube

 

04:21 

メメント・モリ(死を想え)で争いは止むのか?

 

 

 

そりゃ、想い方による。

 

天国地獄等妄想するなら

争いはかえって増悪ぞうあくする。

 

ブッダに学び、

正しく死を想えば

争いは止む。

 

 


日本人は

 

死んだ人は、あなたの近くにいる。

 

と、千年も前から言い続けてる。

 

しかも、これはもちろん日本人だけではない。

 

人は(私は)死んでも生きてるんだと。

何千年も昔から世界中で、

なんど世代が入れ替わっても、

人々はこの迷信を鵜呑みにする。





しかし、


何千年続こうと、

間違いは間違いだ。

真理は、多数決ではないから。

 

マハトマ・ガンジーの言葉とされているもの フリー引用句集『ウィキクォートWikiquote)』)から引用させていただきます。

周知だからといって間違いが真実にはならないし、誰もそう見ないからといって真実が間違いにもならない。例え大衆の支持無くとも、真実は立ち上がる。真実は自立しているから。

"An error does not become truth by reason of multiplied propagation, nor does truth become error because nobody sees it. Truth stands, even if there be no public support. It is self sustained."

(引用終)

 



人間は

死を

超えられない

 

とは、ブッダの聖なる教えなのです。

 

この真昼の太陽のように明々白の真実を、

そのままに受け入れる者はほとんどいません。

一般大衆はもちろん、

学者・僧侶にさえほとんどいない。

しかし

大衆の支持無くとも、真実は立ち上がる。真実は自立しているから。

 

 

 

 




ここでひとつ質問です。
この世界に争いが絶えない原因

は何だとおもいますか?







ブッダの真理のことばDh.6 中村 元 訳)

から引用させていただきます。

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
――このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

(引用終。強調は私です)




ブッダ

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。――このことわりを他の人々は知っていない。

の後に続けて

しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

と教えてます。

わたしはこう確信してます。
死んだ後も何らかの形で「自分」は生きていると大多数の人々が妄想していることこそ、世界に争いがしずまらない本当の原因なのだ。と。

知識の表現

「人は必ず死にます。常識です」

 

智慧の表現

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう」

 

言葉にすれば同じですが、この間には容易に超えがたい深い断絶があります。
その証拠にブッダの次の一句

 

このことわりを他の人々は知っていない。

 

の意味が、知識レベルの人には全然わからないはずです。

世間の常識はあげ底。
それも甚だしいあげ底。
「人は必ず死ぬ」と聞くと「そんなことは常識だ。誰でも知っている」と答えるのがそれ。

あなたは世界の有様を直視してください。

 

生者必滅の理が本当に常識なら、こんなにも浅ましい世界であるはずがないですから。

本当に自分は死を越えられない存在だと気づけば(智慧レベル)「争いはしずまる」ことは自分の手のひらを見るように自明になります。

知識レベルにとどまっている人に、「争いはしずまる」ことをいちおう納得がいくように言葉だけで説明することもできますが、わたしはそんな無駄をやりたくない。
知識でわかってもらっても、争いはしずまらないからです。


 

 


以下の、ブッダの言葉は「なにをあたりまえのことをくどくどと」と思いたくなるほど、《誰でも知ってる事実》です。


この世における人々の命は、定相なく、どれだけ生きられるかわからない。惨ましく、短くて、苦悩に繋がれている。

生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死が来る。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。

若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に到る。

かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。

見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は一人ずつ、屠所に引かれる牛のように、連れ去られる。

このように世間の人々は死と老いとによって害われる。されば賢者は、世のありさまを知って、悲しまない。

泣き悲しむことによっては心の平安は得られない。ただますますかれには苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

だから尊敬さるべき人のことばを聞いて、亡くなった死者を見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、悲しみ嘆きを去れ。

(以上、スッタニパータ第三8・574~590 中村 元訳より抜書引用させていただきました)



ブッダはなぜ、こんな平凡な分かりきったことを、何度も何度も繰り返し説いたのですか。

それは、この「人間は死ぬ」という事実をありのままに認める人がめったにいないからです。

非常に多くの人は、ありのままの事実を忌み嫌い、不死なる魂の大嘘話を信じて感涙にむせびたいのです。

その根底には死への恐怖があります。


これは、人間と世界を理解するための、決定的な最重要ポイントです。
人々が、自由に飽いて往年の欺瞞の国・獣の国にくりかえし戻ってしまう仕組みと打開策を理解するための。

 

 

 

16:02 

「すっぱい葡萄」を乗り越えて「無価値論」へーー理性を育てる

 

 

 

 

 

 (My Favorite Songs)

エドウィン・スター
「ウォー/黒い戦争」

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曲の良さに映像のプレゼン的アイデアがプラスされてる。