哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

人は、死の事実を受け入れず、生き続ける嘘話に感動するほうを選ぶ。いつまでも生き続けたい自分を捨てないなら、いじめも戦争もなくならない。

 以下の釈尊の言葉は、「なにをあたりまえのことをくどくどと」と思いたくなるほど、《誰でも知ってる事実》です。


この世における人々の命は、定相なく、どれだけ生きられるかわからない。惨ましく、短くて、苦悩に繋がれている。

生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死が来る。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。

若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に到る。

かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。

見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は一人ずつ、屠所に引かれる牛のように、連れ去られる。

このように世間の人々は死と老いとによって害われる。されば賢者は、世のありさまを知って、悲しまない。

泣き悲しむことによっては心の平安は得られない。ただますますかれには苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

だから尊敬さるべき人のことばを聞いて、亡くなった死者を見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、悲しみ嘆きを去れ。

(以上、スッタニパータ第三8・574~590より抜書 中村 元訳)



 釈尊はなぜ、こんな平凡な分かりきったことを、何度も何度も繰り返し説いたのですか。

それは、この「人間は死ぬ」という事実をありのままに認める人がめったにいないからです。

非常に多くの人は、ありのままの事実より、嘘の話に感動するほうを選ぶ。
自分は肉体の中に居る不滅の魂で、肉は死んでも自分は魂だから死なないのだと。
私は死んでも生きるんだ、永遠にと。

何千年も昔から世界中で、なんど世代が入れ替わっても、人々はこの嘘話に感激し洗脳され鵜呑みにする。


日本人も「死んだ人は、あなたの近くにいる」と、千年も前から言い続けている。


しかし、


何千年続こうと、
間違いは間違いだ。



 





 この根底には


死への恐怖


があります。


これは、人間と世界を理解するための、決定的な最重要ポイントです。
人々が、自由の国に厭きては往年の欺瞞の国・獣の国にくりかえし戻ってしまう仕組みと打開策を理解するための。





ブッダの真理のことばDh.6 中村 元 訳)から引用します。

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
――このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

(引用終。強調は私です)




 釈尊は「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。――このことわりを他の人々は知っていない。の後に続けて、
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。
と教えています。

 わたしはこう確信しています。
死んだ後も何らかの形で「自分」は生きていると大多数の人々が妄想していることこそ、世界に争いがしずまらない本当の原因なのだ。と。






知識の表現
人は必ず死にます。常識です。

智慧の表現
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。

言葉にすれば同じですが、この間には容易に超えがたい深い断絶があります。
その証拠に釈尊の次の一句「このことわりを他の人々は知っていない」の意味が、知識レベルの人には全然わからないはずです。




世間の常識はあげ底。
それも甚だしいあげ底。
「人は必ず死ぬ」と聞くと「そんなことは常識だ。誰でも知っている」と答えるのがそれ。
生者必滅の理が本当に常識なら、こんなにも浅ましい世界であるはずがないですから。

本当に自分は死を越えられない存在だと気づけば(智慧レベル)「争いはしずまる」ことは自分の手のひらを見るように自明になります。

知識レベルにとどまっている人に、「争いはしずまる」ことをいちおう納得がいくように言葉だけで説明することもできますが、わたしはそんな無駄をやりたくない。
知識でわかってもらっても、争いはしずまらない
からです。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

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