哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

聖書の言葉#1


「神は人間をまっすぐに造られたが
人間は複雑な考え方をしたがる」

(コヘレトの言葉7,29新共同訳)

「むなしい者にはむなしいものが与えられ、
豊かな人々には豊かなものが与えられる」

(エラズ記7,25)

「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、
世を去るときは何も持って行くことができない」

(テモテへの手紙1 6,7)

「人は行いによって義とされるのであって、
信仰だけによるのではありません」

ヤコブの手紙2,24)

「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません」
ヨハネの手紙1 2,15)

実際のキリスト教徒でさえ、この赤のメッセージはスルーしてる人が少なくないと、おれはおもう。キリスト教徒でなければなおさらだとおもう。これは「存在の意味」に直結していく言葉なので、興味のない人には分からないとおもう。
「有るものは、なぜ有るのか」という問題。こんなことに興味を持つ人はほとんどいないでしょう。おれにとっては切実な問題ですが、まわりは「それのどこが問題?そもそも問題自体、意味わからないし」というスタンスです。このブログを更新することで、答えを提示するのは無理でも、そういう大問題が確実ににあると、2,3人にでも分かってもらえれば、じゅうぶん成功だとおもってやってます。


『人間に頼るのをやめよ
鼻で息をしているだけの者に。』

(新共同訳イザヤ書2,22)

キリスト教徒は、これを「=神に頼れ」と読むでしょう。

おれは仏教徒ですから、「=自灯明、法灯明」と読みます。

『人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。
誰がそれを知りえようか。』

エレミヤ書17,9)

これで、「自灯明」の自(分)とは、自分の心ではないと分かります。

釈尊は、そこのところを
「心は人に従うべきで、人は、心に従ってはならぬ。」
と説きました。

分かった。自分=欲望に負けない克己心、だな。という解釈は単純すぎます。
克己心も、人に従がうべき心の一部分にすぎません。

言語表現の限界点に近づいているから、類似体験がないとちょっと伝わりにくい。昔の人は「心こそ 心迷わす心なり 心に心心許すな」なんて言葉遊びの余裕まで見せてたけど、実際は儒教的理解に転落している。だから、難しいのは事実です。




『ものの見えない案内人、あなたはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。』

(マタイによる福音書23,24)

心を、良い心と、悪い心に分別して、良い心で悪い心を除けると思うなら、あなたは、ぶよは除くが、らくだは飲み込んでしまう。

『ものの見えない案内人』とは、立法学者たちとファリサイ派の人々を指しています。
彼らは、まさにそのように心を使って、大偽善に落ちたのです。










わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。

エゼキエル書18,23)



善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。
(ペテロへの手紙1 2,20)





最後に、おれの好きな『コヘレトの言葉』を

わたしは知った 
人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ、と
人だれもが飲み食いし
その労苦によって満足するのは
神の賜物だ、と。

(コヘレトの言葉3・12,13 新共同訳)

それゆえ、わたしは快楽をたたえる。
太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。
それは、太陽の下、神が彼に与える人生の
日々の労苦に添えられたものなのだ。

(コヘレトの言葉8・15)


さあ、喜んであなたのパンを食べ
気持よくあなたの酒を飲むがよい。
あなたの業を神は受け入れていてくださる。
どのようなときも純白の衣を着て
頭には香油を絶やすな。
太陽の下、与えられた空しい人生の日々
愛する妻と共に楽しく生きるがよい。
それが、太陽の下で労苦するあなたへの
人生と労苦の報いなのだ。
何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。
いつかは行かなければならないあの陰府には
仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。

(コヘレトの言葉9・7~10)






さあ、これを、あなたはどう読む?


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