孤独について
若いころは、人生が、かほどまで孤独なものだとおもわなかった。
自分の周りを「そうじゃない」と錯覚させる装置が囲んでいたので。
考えることが、この上なく煩わしいのはいうまでもないが、感じることだって、結局その場だけの刺激だと分かると、煩わしくなる。
孤独は、すぐれた精神の持ち主の運命である
(ショーペンハウアー『パレルカ-ウント-パラリポメナ』)
いやあ、すぐれた精神の持ち主だけの運命じゃないだろう。
人間は誰もが孤独だ。例外はない。
孤独は、人間に生まれたものの運命だ。
人間の孤独性は、鼻が縦に眼が横になってるのと同じレベルのことで、個人の心持でどうこう変えられない。
むなしい共同錯覚世界の住人でいることはひとまず可能だが。
ただ、自分を偽ることを潔しとしない者は、この事実にはっきりと気づく。
気づいても、めったなことで状況は好転しない。
もちろん
気づかなければ、100%変わらない。のだが、それでも
気づいても気づかなくても、たいてい結果が同じなら、嫌な思いはしたくないという反応が非常に多くおきる。
だから、大多数の人間はうっかり嫌な真実に、はっきり気づかないように互いに助け合う。
人間が、さのみ他人を好んでいないのに、群れたがるのは、まさにそのためだ。
映画「マトリックス」が大ヒットしたおかげで、おれは自分が昔から感じていた《世界に対する感覚》を他人に説明しやすくなった。
(映画をよく観るようになったのも、「マトリックス」で映画も捨てたもんじゃないなとおもったのが、きっかけだった)
100%気づいてない人から0%まで一人一人違うが、「気がついていない人」は案外少なくて「気づきたくないとがんばっている人」が大勢いるんだとおもう。さらに、不都合な事実に気づかないことこそ、人間の優れた能力だ文化だと現状肯定賛美する人もいる。てゆうか、こんなのが昔から圧倒的多数派だ。
そして、ほとんど全員が共同錯覚世界の住人になっていく。
しかし、残念だが、そこに救いはないのだ。
一方で、孤独に気づいた者どうしの共感という不思議なパラドックスが生まれる。
否定によって始めて肯定される真実は珍しいことではなく、あるレベルの認識パターンだ。
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(過去記事統合編集再録)