(ヒルティ幸福論第二部「罪と憂い」草間平作・大和邦太郎訳)より引用します。
「主よ、わが罪の深さをあらわしたまえ、しかしあなたのみ恵みの深さをもお示しください。」(同胞協会賛美歌526番)。この言葉のいずれか一方がなかったならば、人は絶望におちいるか、軽薄に流れることになる。
(引用終。強調は私です)
このキリスト者の認識は、浄土宗の二種深信の教えと正確に呼応していると、おれは思う。
二種深信とは、善導大師による深心の解釈をいう。
「一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(機の深信)
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(法の深信)」
深信の機法一体を説く善導の認識と、上のキリスト者の認識は、構造が同じだ。
互いに相手を照らす関係として両者を捉え直すことができ、そうすることで理解が深まる気がする。
※善導
(613年 - 681年)中国浄土教の大成者。
日本の法然、親鸞に大きな影響を与えた。
(Wikipediaより)
※ヒルティ 【Carl Hilty】
(1833-1909) スイスの法学者・哲学者。プロテスタントの立場から倫理的著作を残す。著「幸福論」「眠られぬ夜のために」など。
〔大辞林〕
以前にも書きましたが、
仏教とキリスト教に、様々なシンクロニシティを見つけて喜ぶマニアックな趣味が、おれにはあります。
「神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」
(エフェソの信徒への手紙4.6新共同訳)
言い方はずいぶん違っているが、この教えは「自灯明、法灯明」と同様の影響を、人間の精神に及ぼすと、おれは思う。
自分を通して働き、自分の内におられる、唯一の神を信じることは、「自灯明」と呼応する。
すべてのものの上にある、唯一の神を信じることは、「法灯明」と呼応する。
仏教とキリスト教には、このような呼応関係が、他にも非常に多く発見できると、おれは思う。
新たな呼応関係を見つけるたびに、おれは喜びに震える。
こういうマニアックな話題(と、世間ではみなされる)に、同調してくれる人は、少ないだろうけど……
(過去記事統合編集再録)