やっと自分のPCで更新できるようになった(東京の弟のPCは2日目更新した後不調になり、以後使わせてもらえなかった。
以前から気になっていたテーラワーダ仏教協会に行ってきたが、その報告は後日に)。
誇りというものが世間一般からは手厳しく非難され排斥されてはいるが、しかし私の推測するところによれば、それは誇り得る何ものももたぬ人たちからおこったことである。
大多数の人々の盲蛇に怯じぬといった風の厚顔無知に対抗していくには、いやしくも何か長所のある人は、この長所がすっかり忘却されてしまうことのないように、みずからの長所を常に眼中に置くのが最も得策である。…
謙譲の美徳というものによれば、誰でもが拙者も碌でなしでございと言わんばかりの触れこみをしなければならないことになり、そうなると世の中にはまるで碌でなししかいないように聞こえて、見事な画一化がおこなわれるわけだから、謙譲の美徳は碌でなしにとっては結構な発明である。
これに反して誇りの中でも最も安っぽいのは民族的な誇りである。なぜかと言うに、民族的な誇りのこびりついた人間には誇るに足る個人としての特性が不足しているのだということが、問わず語りに暴露されているからである。
(ショーペンハウアー「幸福について」4 橋本文夫訳)
ショーペンハウアーはこの後に続けて
「ドイツ人には民族的な誇りというものがさっぱり無い」
と書いている。
すると、この時代(1850年代)はそうだったのだ。ショーの現状把握は信用できるから。(追記080224 おれは歴史に関心がない人間だが、そんなドイツにどんな力が加わってナチスドイツにまで様変わりしたのかにはちょっと興味がわく)