哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ショーペンハウアー 編修2

誰でも自分自身にとっていちばんよいもの、いちばん大事なものは自分自身であり、いちばんよいこと、いちばん大事なことをしてくれるのも自分自身である。
ショーペンハウアー「幸福について」橋本 文夫訳)







 先入観に染まった多くの人は、一読して
「あんまり感心しないな、自分勝手じゃないか」と自動反応する。






ところが、これは正しく釈尊の教えそのものなのだ。


人の思いは何処にも行くことができる。
されど、何処に行こうとも、
人は己よりも愛しきものを見出すことを得ない。

釈尊 サンユッタ・ニカーヤ3・8増谷文雄訳)

母も父もその他の親族も、正しく向けられた心が自分のためにしてくれるほどの益をしてはくれない。
ブッダの感興のことば31・10 中村 元訳)

















苦痛のない状態にあって、しかも退屈がなければ、大体において地上の幸福を達成したものと見てよい。
それ以外はすべて架空だからだ。

ショーペンハウアー「幸福について」橋本 文夫訳)





平均人は、「苦痛のない状態」を幸福と感じ続けることができず、じきに退屈→不幸感というまちがった道へ入ってしまう。


快楽を求めて、「苦痛のない状態」をあっさり捨てる。


つまり、今や不幸感ではなく本物の不幸へ、すなわち苦痛の状態に陥る。


その後、この現実の不幸から運よく逃げおおせた者は「幸福」を感じる。


しかし、その「幸福」は、いちばん最初の「苦痛のない状態」よりましなものだろうか。


ここのところを、妄想せず、事実を直視できる人間は驚くほど少ない。






















アリストテレスが「幸福はみずから足れりとする人のものである」と言っているのは、全くその通りである。
ショーペンハウアー「幸福について」橋本 文夫訳)



少欲知足は、弱者の自己保身術などではなく、最高の幸福を得た釈尊のような人間に現れる自然な生活態度だ。
すなわち、少欲知足こそは悟りの姿なのだ。


足ることを知ると云うことは、
前後を裁断してそれになり切る
と云うことである。

澤木興道[禅談]「少欲と知足」)



この澤木老師の言葉によって、おれは初めて「知足」の意味を教えられた。
今この瞬間を生きることが知足なのだ。

ちなみに
貰もらわぬうちの欲を戒いましめたのが少欲で、貰ってからの欲を戒めたのが知足である。
(同) という説明も分かりやすい。












われわれ人間の最大の楽しみは、人からたたえられるということだ。


けれどもたたえる人は、あらゆる条件が揃っていても、なるべくたたえたくないのが本音だから、
自分で自分を心からたたえる境地に何とでもして辿りついた人が一番幸福なのだ。


ただ他人に横槍を入れられないようにする必要がある。

ショーペンハウアー「幸福について」第4章 橋本 文夫訳)






「自分で自分を心からたたえる」なんて簡単にできると思う人は、実際に今やってみるといい。


自分の心が簡単に自分の自由になると思ったら、あてが外れる。


自分に一番きつい横槍を入れてくるのは、他人ではなく、自分の心なのだ。












年老いた暁には、身は老いても老いることのない労作に青春の力をことごとく打ちこんでしまったということくらい、慰めになるものはない。
ショーペンハウアー「幸福について」第4章 橋本 文夫訳)




あきらかに、ショーペンハウアーは、自分のことをいっている。
「意志と表象としての世界」を書いた自分の青春のことを。



「意志と表象としての世界」には、いかなる人も超えることができない究極の哲学が卓絶した表現で書かれている、とおれは思う。


ショーペンハウアーはこの偉大な思想をドレスデン時代(1814~1818)に二十歳代で自分のものにした。
















他人の目にどう見えるかということで価値のあるなしが決まるような生き方は、惨めな生き方だ
ショーペンハウアー「幸福について」第4章 橋本 文夫訳)




他人の言動に絶えず注意を払っているということは、その人がいかに退屈しているかを示すものだ。
(同 第5章)













種々の財宝のうちで最も直接的にわれわれを幸福にしてくれるのは、心の朗らかさである。…
陽気な人には常に陽気であるべき原因がある。その原因とは、ほかでもない、彼が陽気だということなのだ。他のどんな財宝にも完全に取って代われるという点で、この長所に匹敵するものはない。…




朗らかさがやって来たときには、どんな場合にでも、門扉を開くがよい。朗らかさが今来ては困るという時はない。
ショーペンハウアー「幸福について」2 橋本文夫訳)



もっと言えば、我慢できる程度のひとときを、意識的に享楽すべきだ。
悔恨と憂慮には一定の時をこれに当てれば十分である。
唯一の現実的なときをそれらのために台なしにしてはならない、とも教えている。



朗らかさにとって富ほど役にたたぬものはなく、健康ほど有益なものはない。…


われわれの幸福の九割まではもっぱら健康に基づいている。…



およそ愚行中の最大の愚行は、何事のためにもせよ、自己の健康を犠牲にすることである。利得のためにせよ、栄達のためにせよ、学問のためにせよ、名声のためにせよ、まして淫蕩や刹那的な享楽のために、健康を犠牲にすることである。むしろ健康よりも一切を軽く見なければならない。

(同)













ショーペンハウアー
幸福論を書き上げるには、私の本来の哲学が目標としている一段と高い形而上学的・倫理的な立場を全く度外視しなければならなかった
と緒言で述べている。
(幸福論は単なる処世術。人生とは関係ない)とおれは読んだ。それで人生の問題が解決するということは一切ないからだ。いわゆる幸福論は、損と分かっていることをなるべくするなよ、無駄な苦労はするなよという親切心だ。












人間の幸福に対する二大敵手が苦痛と退屈である…
この二大敵手のどちらか一方から遠ざかることができればできるほど、それだけまた他方の敵手に近づいている…



困苦欠乏が苦痛を生じ、これに反して安全と余裕とが退屈を生ずる。…
文明の最低段階である流浪の生活が、文明の最高の段階に見られる漫遊観光の普及を通じて再現されている。流浪の生活は困苦のために、漫遊観光は退屈のために生じた。

ショーペンハウアー「幸福について」2 橋本文夫訳)





週末のアウトドアレジャーなどにも、そういう奇妙な再現があると思う。



われわれの実際の現実生活は、煩悩に動かされるのでなければ、退屈で味気ないものである。さりとて煩悩に動かされれば、忽ち苦痛なものになる。
(同)













誇りというものが世間一般からは手厳しく非難され排斥されてはいるが、しかし私の推測するところによれば、それは誇り得る何ものももたぬ人たちからおこったことである。
大多数の人々の盲蛇に怯じぬといった風の厚顔無知に対抗していくには、いやしくも何か長所のある人は、この長所がすっかり忘却されてしまうことのないように、みずからの長所を常に眼中に置くのが最も得策である。…


謙譲の美徳というものによれば、誰でもが拙者も碌でなしでございと言わんばかりの触れこみをしなければならないことになり、そうなると世の中にはまるで碌でなししかいないように聞こえて、見事な画一化がおこなわれるわけだから、謙譲の美徳は碌でなしにとっては結構な発明である。



これに反して誇りの中でも最も安っぽいのは民族的な誇りである。なぜかと言うに、民族的な誇りのこびりついた人間には誇るに足る個人としての特性が不足しているのだということが、問わず語りに暴露されているからである。

ショーペンハウアー「幸福について」4 橋本文夫訳)



ショーペンハウアーはこの後に続けて
ドイツ人には民族的な誇りというものがさっぱり無い
と書いている。
すると、この時代(1850年代)はそうだったのだ。ショーの現状把握は信用できるから。(おれは歴史に関心がない人間だが、そんなドイツにどんな力が加わってナチスドイツにまで様変わりしたのかにはちょっと興味がわく)












名誉とは要するに、それを担う人が例外的な人物でないことを表わすものである。これに反して名声なるものは、その当人が例外的人物であることを表わす。だから名声はまずこれを獲得する必要があるのにたいして、名誉はこれを失わないように努めさえすればよい。だから名声を欠くことは無名ということであって、消極的な事に過ぎないが、名誉を欠くことは恥辱ということであって、積極的な面をもっている。
ショーペンハウアー「幸福について」4 橋本文夫訳)



必要ないけど、なんとなく整理して書いてみた。
●例外的人物でないことが名誉。失わないことが必要(信用貸しの形であらかじめ授けられている)。失えば恥辱。


●例外的人物であることが名声。獲得することが必要。失っても単に無名になるだけ。












 希望とは、ある出来事が起こってくれるように願うことと、その出来事が起こりそうだと思うことをとりちがえたものです。
ショーペンハウアー「みずから考えること」心理学的覚え書 石井 正訳)



一般に、希望を持つことは、持たないより良いと信じられているが、希望が正しい判断を狂わせ「千にひとつの場合をも、たやすく起こりうるもののように思わせ」る悪魔である事実は無視されている。
「しかし、おそらくだれひとり、このような心の愚かしさから離脱してはいますまい。」
認識は意欲の呪縛から自由になることがほとんどできない。







強弱多少のちがいはあっても、わたしたちは、ひとしく、自分たちの営む業のすべてにおいて、終わりの近づくことをこいねがい、早くすませようとあせり、できあがるのを喜びます。
ショーペンハウアー「みずから考えること」心理学的覚え書 石井 正訳)





これは、落ちついてよくよく考えてみると、非常に奇妙な事実だ。というのは一方で


全般的な終局・いいかえるといっさいの終わりの終わりのみは、できるだけ、遠い未来に延ばすことを望みます。
(同)


ということがあるからだ。












気の早い人たちは、必ず、自分が怒りはじめそうになったら、すぐさま、その事件を一時忘却するように、おのれにうち克つことを努めなければなりません。というのは、もしも、一時間後になってから、この事件に立ちかえってみるならば、彼らにとって、この事件は、もはや以前のように悪いものとは思われず、やがて、おそらくは、なんら意味のないことと見られるでしょうから。
ショーペンハウアー「みずから考えること」心理学的覚え書 石井 正訳)





わかっちゃいるけど止められないわけで、気づいたときはすでに怒っているということもあるが、あきらめずに気づいた時点で怒りをフェードアウトすればいい。かっこ悪くても、そのまま怒り続けるよりはずっとましだ。
怒りの毒は、一生かかって積んだ功徳を一瞬で破壊するほどすさまじいと説かれているのだから。












人は、自分の生殖器を隠すごとくに、自分の意志を隠さなければなりません。これら二つのものは、いずれも、存在の根ではありますけれども。
また、人は、自分の顔だけを他人に見せるごとく、認識のみを表わすようにしなければなりません、これを犯せば、卑俗になるという罰を受けます。

ショーペンハウアー「みずから考えること」心理学的覚え書 石井 正訳)



普通、人は自分の認識のみを表わしているとみずからも信じきって、その実、認識の薄皮をかぶった意志を表わしている。
ショーペンハウアーの「生きんとする盲目意志」とは「けもの本能」のことで、人間は大脳作用による理性の薄皮1枚でこの「けもの本能」をコーティングして、見た目ピカピカの別物に見せているに過ぎない。


少し眼を凝らして視さえすれば意志が透けて見えるのだが、認識はそれを決して視ない。


人の認識は常に、あらかじめ意志に強姦されている。












紙のうえに書かれた思想は、一般に、砂にのこる歩行者の足跡のようなものにすぎず、なるほど、その人のとった道はわかるけれども、その人が道すがら眺めたものを知るためには、だれしも自分自身の眼を用いなければならない
(ショウペンハウアー みずから考えること 石井 正訳)



その足跡を、自分の足で一歩一歩たどって歩いてみる、その人になったつもりで。
紙には書いてない、その人が道すがら眺めたものが見えてくる。




(過去記事統合増補編集再録)