おれは、みんなが気づかないようにしてる本当のことを、周りの空気を読まず平気で言い放つ人が好きだ。
ショーペンハウアーはきっとそういう人だったとおもう。
(ショーペンハウアー「幸福について」4 橋本文夫訳)より引用します。
誇りというものが世間一般からは手厳しく非難され排斥されてはいるが、しかし私の推測するところによれば、それは誇り得る何ものももたぬ人たちからおこったことである。
いきなりこれだからね。
その後も、周りに嫌われることをものともせずズバズバ言う。
大多数の人々の盲蛇に怯じぬといった風の厚顔無知に対抗していくには、いやしくも何か長所のある人は、この長所がすっかり忘却されてしまうことのないように、みずからの長所を常に眼中に置くのが最も得策である。…
謙譲の美徳というものによれば、誰でもが拙者も碌でなしでございと言わんばかりの触れこみをしなければならないことになり、そうなると世の中にはまるで碌でなししかいないように聞こえて、見事な画一化がおこなわれるわけだから、謙譲の美徳は碌でなしにとっては結構な発明である。
…誇りの中でも最も安っぽいのは民族的な誇りである。なぜかと言うに、民族的な誇りのこびりついた人間には誇るに足る個人としての特性が不足しているのだということが、問わず語りに暴露されているからである。
(引用終。強調は私です)
100年以上経った今でも、こんなことを言えばみんな引くだろうとおもう。
ところで、ショーペンハウアーはこの後に続けて
「ドイツ人には民族的な誇りというものがさっぱり無い」
と書いている。
すると、この時代(1850年代)はそうだったのだ。ショーの現状把握は信用できるから。
おれは歴史に関心がない人間だが、そんなドイツにどんな力が加わってナチスドイツにまで様変わりしたのかには興味がわく。
(過去記事再録)