哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

Appamāda不放逸=sati気づき。

ブッダのことば》不放逸(Appamāda)――生命の唯一の命綱 相応部「不放逸経」を読む|スマナサーラ長老のパーリ経典解説とQ&A


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05:08 パーリ経典解説「不放逸経 Appamādasuttaṃ(SN.3-17)」

不放逸(Appamāda)とはなにか。

そのようにappamādaは 全ての道徳の中で王様なのですね。 一番大きいものです。

 

Appamāda不放逸=sati気づき。

 

[感想]

今までこのブログで、

 

人生の核心は
ブッダの教えの核心は


あるいは


ブッダの説法を一言に要約すれば
ダンマの本質は


あるいは


真の幸福は
真の救いは

……………

 

と切り出して、

 

 

 

苦聖諦だ
一切皆苦

死の自覚だ

四諦
八正道だ
無常だ
無我だ
抜苦だ
安心だ
守正念だ
不忘念だ
不放逸だ
サティだ
ヴィパッサナーだ
アーナーパーナサティだ

 
と書いてきた。
 
なぜ、こんなにいろいろに書くかというと、
 
 
気づき(サティ)、正念(サムマー・ サティ)、呼吸瞑想法(アーナーパーナ・サティ)は一続きに繋がってる。
さらに四諦と八正道も。不放逸も正念相続等も。
すべて、
 
ただひとつの究極真実
 
を指し示してるからだ。

 

 

 

あなたのせっかく出したやる気が、毎回あっという間に消えてしまうのはなぜでしょうか。

 

その原因は、あなたが

不放逸(アッパマーダ)の意味を、

まったくはき違えている

からです。

 

 

 

 

ブッダの遺言は

怠ることなく精進せよ(=不放逸

だった。


ブッダは常々「不放逸は不死の境地である。
放逸の人は死人に等しい」と説いた。


ブッダの「怠るな」が、とにかく何でもまじめに精一杯がんばれ、といったあやふやな指示ではないとわかるだろう。何事もさぼらず真剣にやるという普通のことが、不死の境地とはいえないからだ。

ブッダの不放逸は、

一般人が、日々の仕事を一所懸命真面目にやるとかいう意味では、まったくない。

一方、
昔から山奥に何十年も籠って、命も惜しまず修行に励む苦行者たちも、たいていブッダの不放逸から酷くずれていた。

 

 血を吐くほど死に物狂いに日々仕事しても、あるいは山奥で独り真面目に修行しても、
そこに不断のサティがあれば不放逸となるが、サティがないときはただの煩悩でしかない。

正反対に見えるこの両者は、実は同じ精神状態なのだ。

 

仏法のポイントはたった一つ、サティがあるかないかだけ。


何をしようと、サティがないなら、怠けてるのです。

 

これは、世の常識とは明確に違いますが、よくよく考えれば、人生最大の真理だと理解できるとおもいます。

ブッダの遺言「怠るな」は、
サティを怠るな
という意味だ。
「今ここ(瞬間の現在)」に気づき続けよ
という端的な指示だ。

ブッダ入滅に立ち会った当時の弟子たちは皆、それをはっきり知っていた。

 

 

 

賢愚を問わず、およそ世人がたどり着く結論は

「なにがなんでも生き続けるべきだ。
それを邪魔する奴を、迷わずぶち殺せ。
正当防衛殺人は罪にもならない」

と、こればっかり。

獣となんら変わらない。

(獣の生き方をして「獣になれない私たち」と言うトンチンカン)

獣と同じなら、人間に生まれた甲斐はどこにもない。

願って叶うことならまだしも、生き続けたいという願いはどれほど代償を払っても絶対に叶うことがないのに。

人間が救われるには各自各人が覚醒するしかない。
できてもできなくても、それ以外に道がない。
選択の余地はなく、
逃道・抜道一切なしの一本道だ。
遅かれ早かれ全員が自分でやるしかないということだ。

だったら、
今すぐ始めてさっさと結果出すのが一番カシコだろ。

 

 

 

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)

The Beatles (With Billy Preston) - Get Back (Music Video)


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