「なぜ日本人は“自信がない”のか?」浜崎洋介と與那覇潤が現代の“不安”を生む〈承認欲求〉と〈自己責任論〉を撃つ - YouTube
おれが田舎に住んでるからなのか、いまだに周りはマスクだらけだ。
実にシュールな光景だが、これがリアルな日常だ。
[感想]
人は誰でも、ありのままの自分を信じて自分を好きになり、自分を励まし、自分を自分で褒められる生き方をすべきだ。
自分を信じられないのは、
心の底に恐れがあるのに、
それを不誠実な態度でごまかしてるからだ。
心の恐れを、ごまかさずにいられないのは
「人は死んでも、自分だけは死なない」
と思ってるからだ。
こんな真っ赤な嘘を信じようと無理をするから、
自信がもてなくなり、
自灯明の人生を歩む
ことが根底的にできなくなってる。
阿難尊者にブッダが与えた最期の説法は
自灯明
法灯明
であった。
ブッダは「私を信じよ」とは言ってない。
もちろん、世の宗教のワンパターン「神を信じよ」乃至「神の使者を信じよ」とも言ってない。
しかも、「法灯明」より「自灯明」が先だ。
自分を信じない人間は、
正しいことがなにひとつできないからだ。
人間は、
まず自分を深く信じなければならないのだ。
病なんの処にか在る。
病は不自信の処に在り。
(臨済禅師)
「修行が進まないのは、お前が自分を信じないからだ」
と臨済禅師は断言してる。
ブッダの「自灯明」の重要さを説いてるのだ。
ブッダは「自灯明」と示し、臨済禅師は「病は不自信の処に在り」と断じて、自分を信じることの重要性を説く。
語録の王といわれる臨済禄は、
全編ほとんどそれしか書いてないと、おれはおもう。
自分は意志が弱いからダメだと思ってるのに、なんとなくそのままにして生きてる人は、自分を信じてる状態ではない。
意志の弱い自分を丸ごと心底信じきるか、それが無理なら(普通無理なんですが)一度やると決めたことをできるだけ実行することで、信じることができる自分に日々少しずつ近づく努力を続ける。
続けてさえいれば、それはほぼ自分を信じてる状態に等しい。
自分を信じることができた時、自分の意志が弱いとか強いとか気にしない人間になってるとおもう。
普通無理な丸ごとの自分を心底信じきるという「神速の一手」を使えるのは、自分の生まれつきの気質を変えようとせず、その特質をそのまま純化する(できる)人に限るともいえる。
つまり、生まれつき下意識で自分を深く信じてる人間だけが、「神速の一手」を使って覚醒した自信に帰着できるということだとおもう。
もっとはっきり言うと、
人間は、自分を深く信じて生まれてくる人間と、そうでない人間の2種類しかいない。
そして、自分がどっちの人間かは、実際に「自分の特質をそのまま純化する」を本気でやってみた末に初めて分かる。
一切衆生は唯我独尊じゃ、自分が自分を生きるよりほかはないんじゃ。それをどうして見失うたか。━━世間の見本が悪いからじゃ。常識といい、社会意識といい、党派根性といい、一切合切みんな見本が悪すぎる。よく人々は位の高い人をたくさん並べて、だれがいちばん偉いだろうなどと言うが、そんなひがんだこと言わんでも良い。私はいつも「おれだ」という。「なんだあんな乞食袋を下げて…」と他人は言うかもしれないが、しかしおれは他人の鼻を借りて息をしておらん、おれはおれの鼻で息をしているんだ。自己を冒涜せず、自己を極度に発揮するのが成仏と言うのだ。
自分を深く信じるためには、
自分に対して一切ごまかしがあってはいけない。
自分の心は自分ではない。
自分の心にごまかされないように、
よく注意すること(sati)が大事です。
憎む人が憎む人にたいして、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、
(ブッダの感興のことば31・9中村 元訳)
「人は死んでも、自分だけは死なない」
と邪な心は盲目的に渇望し、
自分を根底からごまかしてる。
この状態で、自分を信じることは不可能です。
母も父もその他の親族も、正しく向けられた心が自分のためにしてくれるほどの益をしてはくれない。
(ブッダの感興のことば31・10)
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。