(中国禅宗神話のお話は昨日でいったん終わりにします)
仏道を信ずる者は、すべからく自己、本より道中に在って、迷惑せず、妄想せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なきことを信ずべし。かくの如きの信を生じ、かくの如きの道を明らめ、よってこれを行ず。乃ち学道の本基なり。
(道元禅師 永平初祖学道用心集9)
おれは、これを方法的信と呼んでます。
科学実験における仮説のようなものです。
ただし、
自分の人生をかける命がけの仮説
ですけどね。
に逆回転させます。
わが心を存することなく、なし難く忍び難きことなりとも、仏法のためにつかわれて、しいてこれをなすべし。
(同)
自爆テロなんかやる人の盲目的信心とは違う。
ちなみに、方法的信の前に方法的懐疑の段階があります。
この手順は変えたり省いたりできないとおもいます(懐疑を否応なく徹底し苦聖諦を自然に体得する恵まれた人生の人は別です)
方法的懐疑は、方法的信ほどの困難はないという意味で、比較的楽です。
デカルトの方法的懐疑は有名です。以前書きました。
(過去記事増補編集再録)