哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ひとりで対談ごっこ4回目

(この前、ワイドナショーで、古市憲寿さんが複数のイマジナリーフレンドとしゃべってると言ったら、周りが、古市やべえ奴的反応になった。

おれは普通に共感して、嬉しくなっちゃったけどね。
この対談ごっこなんて、まさにイマジナリーフレンドの会話だからさ
)



キリスト者
じつに、感覚的体験というものが、新鮮に感じられるのは、はじめだけです。
してみると、これは感覚がわたしを欺いているのだと思わざるを得ない。


現実主義者
それは、男女間の快楽にもいえますか。


キリスト者
少なくとも、セックスの快楽については確実にいえます。


現実主義者
だんだん良くなる場合だってあると思うけど(笑)


キリスト者
それは、いろいろ工夫して、ごまかしているから(笑)


現実主義者
それがまた楽しかったりして(笑)


キリスト者
こまったな(笑)


現実主義者
なんで、こまるんですか。


キリスト者
「男こそわがすべて」という、神知らずの女性側の口吻そのままに、男が「女こそわがすべて」といって安心立命しているのでは、「人が生きているのは、そも何のためか」と問われても、なんとも答えようがなくなる。


現実主義者
じゃあ、どうせいいうの(笑)


キリスト者
キリストや釈尊に、われわれの思いを込めなければならんと思うね。
なんと尊い生命であることか、この世に生きていることを精一杯楽しめ、とあなたは言う。
それなら、いずれ絶対死なねばならぬ宿命をどうあつかうのか。あつかいようがないじゃないですか。
実際は、ただごまかしているだけではないですか。
いったい、生をむさぼるだけの態度が、なんで健康的ですか、猿じゃあるまいし(笑)


現実主義者
あなたのいいたいことは分からないでもないんですがね。
人生に無常を感じて、はかなんだり沈みこんだりする。はては、死後の世界などという当てにならないものにすがりつく。
そんな、お婆くさい有様は、惨めたらしくて見るに耐えないですよ。
同じごまかしなら、生を謳歌して元気なほうがいいのであって…


キリスト者
いや、それは違うと思う。
たいした考えもなく「生きてることが最高さ」という根無し草的人生こそ正視に耐えない。


仏教者
死ぬということは、真剣に考えなきゃならんですよ。


現実主義者
それは、だれでも真剣でしょ。


仏教者
いやいや、さにあらず(笑)


……人生は、すばらしい。その美しさ、麗しさは賛嘆に値する。
しかし、人の死なねばならぬ宿命が、そのすべての輝かしさを灰色に塗りつぶしてしまう。
死とは、人間にとって最大の不可解なパラドックスです。


現実主義者
それはもちろんよく分かるよ。
この世のどんな華々しい成功者も死ぬときは寂しいもんだもの。
だいたい、人に最も強い自信を与えるのは、自分の思想・信念が世界を整合的に把握しているものだという確信でしょう。
生きている間はその証明が常にあり、会心の笑みを絶やさないほどの成功者でも、そのすべての勝利は死を前にしてすっかり色あせてしまう。
がっかりさせるよなあ(笑)


仏教者
しかしね、たとえば人が死ぬのを見せられるたびに、なにか自分に冷水をかけられたような、力が盗まれるような気分になるとしたら、それは自分がまちがった生き方をしているからなんだよ。
人は死のわなをのりこえて、究極の勝者になるべきですよ。


現実主義者
そんなあなた、のりこえたくても人はせいぜい百年前後で寿命が来ちゃうもの(笑)


キリスト者
人が百年前後で死ぬということは、精神にとってはまったくの偶然にしか過ぎないと思います。


現実主義者
ウッ(笑)
万人の上にある冷然たる事実は、これを必然というべきだと思いますけど。


仏教者
あなたは、なかなか頑固だ(笑)


現実主義者
ぼくは、むしろ、こういうことは認めますよ。
つまり「自分はまもなく死ぬのだ」と思って生きるのが、ある種の人々にとっては、テクニックとしてかなりいい生き方になるってことです。


キリスト者
「明日死ぬつもりで今日を生きる」ですね。





(続く)

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