(禅に聞け 澤木興道老師の言葉 櫛谷 宗則編)から引用します。
実物さえあれば言葉は自由自在に表現できる。しかし言葉は実物ではない。言葉の中に実物があるなら、「火、火」と言うたら舌は火傷し、「酒、酒」と言うたら酔っぱらうじゃろうが、しかしそうはゆかんじゃないか。
実物のないものは、何と言うてもダメである。理屈をどう言うてもダメじゃ。言葉は言葉だけのものである。
わしは西田幾太郎の本もよう読んだが、「ただ新しい言葉を発見するだけなんだな」と思った。
ホトケに成りたい?ホトケになんぞ、ならいでいいんじゃ。
今が今、自分が自分すればいいんじゃ。
ここを捨ててどこへ行くというんじゃ。
(引用終。強調は私です)
「今・ここ」に完全に集中できれば、自分という意識は作り物だと明らかにわかるとヴィパッサナー実践の説明にあるのですが、おれはいまだに、その実物に到達できません。
釈尊の「自灯明」の実物を「自分が自分する」と澤木老師は教えてくれてます。
老師は実物を持っているので、このように独自の表現が自由自在にできる。
実物さえあれば言葉は自由自在に表現できるのです。
(仏法に限らずじつは何でもそうなんだけど)
仏法は特に、言葉や理屈だけでは微塵も誤魔化せない世界です。
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