哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

邦画『湯を沸かすほどの熱い愛』


ウィキペディア『湯を沸かすほどの熱い愛』より
ストーリー
夫の一浩とともに銭湯を営んでいた双葉は、他ならぬ夫の失踪とともにそれを休み、パン屋店員のバイトで娘の安澄を支えていた。ある日職場で倒れ、病院で検査を受けると、末期ガンとの診断であった。2~3カ月の余命しか自分に残されてはいないと知り落ち込む双葉だったが、すぐに残されたやるべき仕事の多さを悟り立ち上がる。

まずいじめに悩み不登校寸前に陥った安澄を立ち直らせ、級友たちに言うべきことを言えるようにさせること。そして行方不明の一浩を連れ戻し、銭湯を再度開店するとともに家庭を立て直すこと。双葉は持ち前のタフさと深い愛情で次々と仕事をこなし、一浩とともに彼が愛人から押し付けられた連れ子の鮎子をも引き取って立派に家庭を立て直した。その上で、彼女は夫に留守番をさせて娘たちと旅に出る。彼女の狙いは、じつは腹を痛めて得た娘ではない安澄を実母に会わせることだった。道すがら出会ったヒッチハイク青年拓海の生き方をも諭したりもしつつ、やがて双葉は力尽きて倒れる。だが、彼女の深い思いは家族たちを支え、そして拓海や、安澄の実母・君江、夫の調査に当たった子連れの探偵・滝本の心にも救済をもたらすのだった。静かに眠りについた彼女に導かれるように、新たな繋がりを得て銭湯で行動しはじめる人々。彼らを見守る双葉の心が、煙となって店の煙突から立ち上った。



 『湯を沸かすほどの熱い愛』という超ダサイ題名が、最後にキラキラ輝いて見えるから。



 それとは別におれ的には、おそらくほとんどの人がスルーするだろう次のシーンに感動した。
死んだ妻のことを探偵の滝本は娘マユに「ママは天国に行ったけど、また会えるよ」と噓を言ってたが、物語の終盤で「人は死んだら二度と会えなくなる。だからもうママには会えない。…ごめんな、ずっと嘘をついてて。…やっとパパ、マユにほんとのこと言えたわ」と言う。このシーン。

実はほんの数日前、おれはキリスト教系の宣教者に、死んだ家族に会いたくないかと訊かれ
「死んだ人がどこかで生きてるとかいう話はあほらしくて聞いてられない」とおれ。
「でも仏教ってそう教えてるんでしょう?」と宣教者。
「違います。今の仏教は堕落してるんですよ。キリスト教と一緒です」と答えて相手をすっかり白けさしたばかりだったので、よけいこのシーンに敏感に反応したのかもしれない。

 死んだ人が天国に引っ越すだけと思うなら、人間は死をまったく認めていないのだ。だからこの世界には自由も平和もない。その反対に陰湿ないじめと残酷な戦争が常にある。
ブッダ
人間が自分は死ぬ定めだと本当に認めれば、人間は自由になり世界は平和になる。
と明解に説いているからだ。