哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

小津が映画「お早よう」で到達した日本思想

小津安二郎監督による37作目の作品『淑女は何を忘れたか』(1937年公開)


 この時期の小津作品には、まだ観客への迎合が残っている。
はっきり言ってしまえば、客を上から目線で見下している部分だ。
今の映画やテレビドラマは、この客を頼りながら馬鹿にする安直うけ狙いをますます増やしているが、小津は限界まで削ぎ落とす方向に一作ごとに突き進んで、おそらく見込み通りの宝・日本人の精神の美を掘り当てたんだとおもう。

監督50作目の名作「お早よう」になると、それをはっきりと確認できる。(お早よう ニューデジタルリマスターをクリックしてYouTubeで見てください)



 笑いの対象は、富裕層・上流階級から普通の庶民に替っている。まさにこの映画を観ている観客を笑っている。この諦観は、客への迎合心・上から目線では出てこないものだ。
 
最終部分の佐田啓二久我美子の会話。

佐田「アア、いい天気ですねえ」
久我「ほんと。…いいお天気」
佐田「この分じゃ二三日つづきそうですね」
久我「そうねつづきそうですわね」
佐田「アアあの雲面白い形ですねえ」
久我「アアほんと面白い形」
佐田「何かに似てるなあ」
久我「そう何かに似てるわ」
佐田「いい天気ですねえ」
久我「ほんとにいいお天気」

この平凡さの描写は非凡だ。凄みさえ感じる。
男は「大事なこと」が言えなくて、どうでもいいことばかり話し、女はおうむ返ししかしない滑稽シーンで、漫才なら最低の掛合だが、裏に別のメッセージが貼られていると、おれはおもう。

 人はみな死ぬ。人生に意味はない。大多数の人間は悟れない。
それならば、このようにゆっくり生きるのがベストだ。「お早ようと言い合うような無駄こそ大事だ」ということになる他ない。そして「お早よう以外の大事なこと」が、男女が「好きです」と伝えあうことなのだ。
小津安二郎はそういってるんだとおれはおもう。そして小津の後ろには本居宣長がいて、この思想を支えている。一言でいえば業の肯定だ。業の肯定とは、笑いたければ笑い、泣きたければ泣き、好きなものは好きと言い、嫌なものには嫌と言うことで、公人の「立派な」理屈より、庶民のさりげない欲求を自覚的に信じることだ。これは儒教、仏教、キリスト教など外国の教えが伝わる前からある日本民族本来の固有思想だとおもう。宣長は外来の教えを否定して、日本民族本来の思想を称揚している。
事実として、日本に入ってきた宗教のほとんどが、時とともに、この日本思想と見分けがつかないまでに変節順応して漸く、この国に定着できた歴史がある。
おれはブッダ本源の教えが日本に必要だと確信してるので賛成できないが、小津ほど堂々と、淡々と主張されたら、見事というしかない。


(過去記事増補編集再録)