世界に比類なく勝れた、ブッダの教えを紹介します。
(中部第63 小マールンキャ経 毒矢のたとえ 桜部健訳より)ブッダの言葉。
人は死後存在するという考え方があってはじめて、人は修行生活にとどまるであろうというようなことはない。 …
人は死後存在しないという考え方があってはじめて、人は修行生活にとどまるであろうというようなこともない。…
人は死後存在するという考え方があろうと人は死後存在しないという考え方があろうと、まさに、生まれることはあり、老いることはあり、死ぬことはあり、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはある。
現実にそれらを制圧することをわたしは教えるのである。
わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
わたしが説くことは説くと了解せよ。
何ゆえにそれ[人は死後存在するか否かなどの問題]をわたしは説かないか。…
これは目的にかなわない。
修行のための基礎となるものではない。
世俗的なものへの嫌悪・欲情から離れること・
このゆえにそれをわたしは説かない。
これは苦であるとわたしは説く。
これは苦の生起する原因であるとわたしは説く。
これは苦の消滅であるとわたしは説く。
これは苦の消滅に進む道であるとわたしは説く。…
何ゆえにそれをわたしは説くか。…
これは目的にかなう。
これは修行のための基礎となる。
これは世俗的なものへの嫌悪・欲情から離れること・煩悩の消滅・心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつ。
このゆえにそれをわたしは説く。
釈尊の無答記
(1)世界(および我)は常であるか、(2)無常であるか、(3)常にして無常であるか、(4)常でも無常でもないのか、(5)世界は有辺であるか、(6)無辺であるか、(7)有辺にして無辺であるか、(8)有辺でも無辺でもないのか、(9)如来(衆生)は死後に有であるか、(10)無であるか、(11)有にして無であるのか、(12)有でも無でもないのか、(13)命と身は同一であるか、(14)異であるか。以上、十四無記という。
これらの議論を、有害無益であると明確に制止したところに、人類の慈父・釈尊の比類なき知恵と慈悲が現れている。
これらの問題は、どうにでも考えられる、というレベルから出ることができない。
限りある貴重な修行時間の徒費という致命的な結果をまねくだけだ。
結論は、
苦聖諦(一切皆苦)を学んでのみ得ることができる特別の活力でヴィパッサナーを実践する。この一事だ。
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「わかってもらえないだろうけど一切皆苦 苦聖諦」→http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzU2NjI0OTg4Lmh0bWw-
(過去記事増補再録)
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