哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

比類のないヴィパッサナー瞑想

 世界中の宗教に、さまざまな禅定瞑想があるが、一つのシンボルに一心不乱に集中するという本質において、みな同じものだ。

 ブッダだけが発見しえたヴィパッサナー瞑想は、それらとは全く違う。

…観(ヴィパッサナー)は釈尊が発見・開発された、仏教オリジナルの瞑想法で、瞑想対象の本質を「絶え間なく変化生滅し続ける現象」と捉えます。そこが既に、「全ては無常」と発見した釈尊ならではのものです。釈尊以前の人々には思いもつきませんし、発見もできなかったものです。
 仏教以外にも知られている、いわゆる「禅定」瞑想は、止(サマタ)瞑想と呼ばれます。観と同じく必死に集中してものごとを観察しますが、視点が観(ヴィパッサナー)とは全く異なります。止(サマタ)では、絶え間なく変化生滅し続ける現象を、その生滅する一つずつを次々に観察するのではなく、現象を「変化しないもの」と仮定して、何か一つの対象だけに集中し続け、そこに心を「留める」のです。
仏教的に正しい禅定の作り方 藤本 晃(慈照)文学博士・誓教寺住職)より引用

 仏教でない禅定の場合は、…何か一つの対象に集中して一心不乱になって集中が定まった時、禅定に入れた、というくらいの説明しかないと思います。しかも仏教でない場合は、禅定から日常生活に戻ればどうせまた欲界への執着も不善も起こってきますから、根本的な解決には何もなりません。
(同)

…禅定は悟りと関係なく、悟りに達する助けにしかなりませんので、釈尊も、禅定はできてもできなくても悟れば何も問題ないと思っておられたようです。
(同)

 釈尊は、釈尊以前からあった瞑想修行や禅定を、一方ではただこの世で楽しむだけの無用のものと斥けながら、他方では、正しく学べば悟りへの早道になるものですからしっかり利用して、決して道を踏み外さない正しい指導マニュアルを作って、お弟子たちにも勧めておられたのです。「仏教的に正しい」瞑想指導に従って修行すれば、禅定の楽はもとより、悟りにまでも導いてもらえる、巧みな説き方になっています。
(同)