哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

坂口安吾「堕落論」

坂口安吾堕落論」「続堕落論」はおれにとってバイブルで、忘れられない本だ。

堕落論」から少しばかり引用する。

「歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の将軍達が切腹もせずくつわを並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。」

「 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。」







「続堕落論」の冒頭。

「私が小学校のころ、中野貫一という成金の一人が産をなして後も大いに倹約であり、停車場から人力車に乗るとがなにがしか高いので万代橋ばんだいばしという橋のたもとまで歩いてきてそこで安い車を拾うという話を校長先生の訓辞において幾度となくきかされたものであった。ところが先日郷里の人が来ての話に、この話が今日では新津某にいづぼうという新しい石油成金の逸話に変り、現になお新潟市民の日常の教訓となり、生活の規範となっていることを知った。
 百万長者が五十銭の車代を三十銭にねぎることが美徳なりや。我等われらの日常お手本とすべき生活であるか。この話一つについての問題ではない。問題はかかる話の底をつらぬく精神であり、生活のありかたである。」


(過去記事増補編集)

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