哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

教えの核心

釈尊は弟子達を集めて、法を説かれた)
もしこの身体が、『我』であるならば、『我』は、わが身を、自由にすることが出来る筈である。
(しか)るに、この身体は、願わないのに病み、欲しないのに老いる。何ごとも、思うようにならないのが常である。

 この心も、身と同じく、『我』ではない。心もまた、因と縁との集積(あつまり)であり、(うつ)り変わるものである。
もし心が『我』であるならば、『我』は、わが心を、自由にすることが出来る筈である。
然るに、この心は、こころにもなく悪を思慕し、意外なことで善から遠ざかる。何ごとも思うままにならないのが常である。

 弟子達よ、人あって、この身は、永遠(常住)であるか、変化(無常)であるか、と、問うならば、なに人も、無常である、と、答えるに相違ない。
それでは、それが欲しない方向に変化することは、苦であるか樂であるか、と、問うならば、なに人も、苦である、と、答えるに相違ない。
このように、
常に変化し、しかも苦であるものを『我』であるとか『我所(わがもの)』であるとか思いこむのは、誤りでなければならない。


 心も、また、同じく、無常であり、苦であり、無我である。
然らば、この個体を組み立てている、身と心と、そして心の対象は、いずれも、『我』でも『我所』でもない。
ただ無智なるが故に、『我』、『我所』として、(とら)われるのである。

 身も心も、そしてその対象となるところのものも、ことごとく縁によって発生したものであって、絶えず変化し、(しば)しの間も停止することがない。流れる水のように、また燃えている灯火()のように、常に変化して、止まるところがないのである。
智慧ある者は、この(ことわり)を見聞きし、身と心に対する執着を去り、心身の自由を得る即ち解脱することを得るのである。

(現代語仏教聖典 釈尊編 3章1節「最初の説法」より)




※記事「直接無我に繋がる知」参照
http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzU1ODM3MzM2Lmh0bWw-



色・受・想・行・識を(いと)」気持ちに、真実なれるかなれないかが、釈尊の教えに近づくか遠ざかるかの分かれ道だと思う。

自然状態の人間は、生まれてから、さあいよいよ死ぬというその瞬間(とき)まで、色・受・想・行・識に執着するのが(さが)だから、これは、確かに容易なことではない。

「色・受・想・行・識を厭う」とは、簡単にいえば「妄想を厭う」ということだ。人間は『我』、『我所』という妄想を(まゆ)として、そこから夢や希望や思想や信仰といった様々な妄想をつむぎ出し、それらを愛して止まないではないか。
いくら釈尊にいわれても、自分で妄想だと気づかなければ、厭うことはできない。