もしこの身体が、『我』であるならば、『我』は、わが身を、自由にすることが出来る筈である。
この心も、身と同じく、『我』ではない。心もまた、因と縁との
もし心が『我』であるならば、『我』は、わが心を、自由にすることが出来る筈である。
然るに、この心は、こころにもなく悪を思慕し、意外なことで善から遠ざかる。何ごとも思うままにならないのが常である。
弟子達よ、人あって、この身は、永遠(常住)であるか、変化(無常)であるか、と、問うならば、なに人も、無常である、と、答えるに相違ない。
それでは、それが欲しない方向に変化することは、苦であるか樂であるか、と、問うならば、なに人も、苦である、と、答えるに相違ない。
このように、
常に変化し、しかも苦であるものを『我』であるとか『
心も、また、同じく、無常であり、苦であり、無我である。
然らば、この個体を組み立てている、身と心と、そして心の対象は、いずれも、『我』でも『我所』でもない。
ただ無智なるが故に、『我』、『我所』として、
身も心も、そしてその対象となるところのものも、ことごとく縁によって発生したものであって、絶えず変化し、
智慧ある者は、この
(現代語仏教聖典 釈尊編 3章1節「最初の説法」より)
※記事「直接無我に繋がる知」参照
→http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzU1ODM3MzM2Lmh0bWw-
「色・受・想・行・識を
自然状態の人間は、生まれてから、さあいよいよ死ぬというその
「色・受・想・行・識を厭う」とは、簡単にいえば「妄想を厭う」ということだ。人間は『我』、『我所』という妄想を
いくら釈尊にいわれても、自分で妄想だと気づかなければ、厭うことはできない。