およそ自由と呼ばれるもののなかで本物の自由があるとすれば、それは必ず超越的自由でなければならない。
どのようなもっともらしい理由をつけようと、強制的制約を受けた自由などというものは明らかに自由とは別のものである。
したがって、自由は現象とは矛盾する。
なぜなら、この世界には主客の対立や時空や因果律といった現象界の強制的制約が常についてまわるからである。
自由は、この世のものではない。
この世に本当の自由はない。
世界のすべての存在者は不自由者であり、自然の盲目で衝動的な生きんとする「意志」の影絵にすぎない。
自由とは強制的決まりの全くないことである。
ほんのわずかでも強制的決まりがあればそれはもう自由ではない。
決まり(法則)のないことは偶然とも呼ばれる。
しかし自由は偶然(でたらめ)とは違う。
自由は内的必然、自律的必然なのだ。
自由は根拠律を持たず、自らを他のすべての根拠とするもののことである。
自由とは、なにものにも強制されず、何事も自ら決めることである。
すなわち自由とは「意志」にほかならない。
もちろんこの場合「意志」とは、直接に人間の意志を指すのではなく、自分を映しだす鏡として世界を造った大いなる一者…すべての現象の究極原因たる「盲目の意志」のことである。
「意志の自由のままに応じて、ここの客観はそもそも存在しないということもあり得てくるだろうし、また根源的に、本質的に、それがぜんぜん別の客観になるということだってあり得ることかもしれない。さらにまた、その客観が一つの環としてつながれている連鎖の全体を考えるなら、これ自体も同じ意志の現象であるからには、やはりまったく別の連鎖となることだってあり得ることかもしれない」(ショ-ペンハウアーの主著「意志と表象としての世界・正編」第五十五節。西尾幹二訳・中央公論社。以下 55 と表記する)
これは、つまり、意志は完全なる自由だから、存在を捨て非存在=無であり続けることもできたはずだ。
また、われわれの想像もできないまったく別異の客観世界でもあり得たはずだ。
あるいは、この同じ世界の現象もまったく別種の法則体系によって出現させてしまうこともできるはずだ、とショーペンハウアーはいっているのである。
人間の意志が、すべての表象同様すでに時空や因果律の制約を決定的に受けていながらそれでも自分は完全に自由だなどと錯覚していられるのも、それが「意志」のもっとも実物に近い絵だからだ。
しかし、人間は本当に完全に自由ではないのだろうか。
ショーペンハウアーによれば、この世界に真の自由が現われるただ一つの例外的現象があるというのである。
しかもその唯一の自由の実現が人間だけに可能であり、ひとえに人間の努力にかかっている。
そのために、人間にだけは責任と罪ということもまた確かにあることになるのである。70
よく知られた食物連鎖の図は、飢えたる意志という名の大蛇が自分の尻尾を噛んでいるように、おれには見える。
この食物連鎖というものは、それだけ見れば意味も目的も欠けているので虚無の表現にしか見えない。
それは一秒でも長く存在しつづけようとする遺伝子の盲目のいとなみだ。
ここでは、あらゆる有機体は遺伝子に次から次へと使い捨てにされる乗り物にすぎない。
意味も目的もない、始まりも終りもないグルグル回りである。
つまり ショーペンハウアーのいう盲目の意志だ。
自然の大いなる衝動(意志)は自分の欲しているものが何なのか知らない。
自己の表象としてのこの世界を「人間の認識能力」という自己の高度な表象を通して人間の中で人間とともに見つめる……このような回路によって意欲は意欲の何たるか(=自分自身)を知るのだとショウぺンハウアーはいう。54
そのとき初めて自身の盲目的なることをも知る。
欲しているものを知らない、ただひたすらな欲である自身の正体を知るのだ。
しかし、このように知る具体的な当体は人間にほかならない。
人間はこのとき、以上の一部始終を知ってしまう。
すると、人間(=一つの意欲)は、なんと大いなる自然の意欲そのものを是非しだす。
人間において、真の自由がほの見える瞬間である。
自分自身その一部分である自然の生きんとする衝動を肯定し身をゆだねるべきか、否定して まったく未知の人間だけの可能性に賭けるか……この<あれか これか>の選択。
自然的人間は、世界のあらゆる生きとし生ける存在者と共に否応なく前者になる。←平均人
せいいっぱい力んでも、今まで無自覚にしていたことを、あらためて自覚的にするようになるだけのことだ。←野心家
こうして大多数の人間においては、生れたばかりの真の自由は胚芽のまま枯れる。
自然の盲目の意志さながらに激しく喜び激しく苦しむ野心家の生きざまが、自然的人間の人生の究極の形なのである。
平均人はときに口では否認しても、心底では常に野心家の人生にあこがれている。
興業的に成功する物語が、ほとんどすべてといっていいほど野心家の生きざまを描いたものである理由はここにある。
(未完)
「攻殻機動隊12」中佳作
「攻殻機動隊13」下佳作
「ゼブラーマン」中佳作
「ナショナルトレジャー」中佳作。
「キングアーサー」中佳作。また昔観たやつを借りてしまった。