哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ショーペンハウアー 編修4

 「意志の自由のままに応じて、ここの客観はそもそも存在しないということもあり得てくるだろうし、また根源的に、本質的に、それがぜんぜん別の客観になるということだってあり得ることかもしれない。さらにまた、その客観が一つの環としてつながれている連鎖の全体を考えるなら、これ自体も同じ意志の現象であるからには、やはりまったく別の連鎖となることだってあり得ることかもしれない」
(「意志と表象としての世界・正編」第五十五節。西尾幹二訳・中央公論社。以下 55 と表記する)

 

 

 これは、つまり、意志は完全なる自由だから、存在を捨て非存在=無であり続けることもできたはずだ。
また、われわれの想像もできないまったく別異の客観世界でもあり得たはずだ。
あるいは、この同じ世界の現象もまったく別種の法則体系によって出現させてしまうこともできるはずだ、とショーペンハウアーはいっているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 およそ自由と呼ばれるもののなかで本物の自由があるとすれば、それは必ず超越的自由でなければならない。


どのようなもっともらしい理由をつけようと、強制的制約を受けた自由などというものは明らかに自由とは別のものである。


したがって、自由は現象とは矛盾する。


なぜなら、この世界には主客の対立や時空や因果律といった現象界の強制的制約が常についてまわるからである。


自由は、この世のものではない。
この世に本当の自由はない。


世界のすべての存在者はデフォルトで不自由者であり、自然の盲目で衝動的な生きんとする「意志」の影絵にすぎない。


 自由とは強制的決まりの全くないことである。
ほんのわずかでも強制的決まりがあればそれはもう自由ではない。


決まり(法則)のないことは偶然とも呼ばれる。
しかし自由は偶然(でたらめ)とは違う。


自由は内的必然、自律的必然なのだ。
自由は根拠律を持たず、自らを他のすべての根拠とするもののことである。
完全な自由とは、なにものにも強制されず、何事も自ら決めることである。


すなわち自由とは「意志」にほかならない。


もちろんこの場合「意志」とは、直接に人間の意志を指すのではなく、自分を映しだす鏡として世界を造った大いなる一者…すべての現象の究極原因たる「盲目の意志」のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間の意志が、すべての表象同様すでに時空や因果律の制約を決定的に受けていながらそれでも自分は完全に自由だなどと錯覚していられるのも、それが「意志」のもっとも実物に近い絵だからだ。


 しかし、人間は本当に完全に自由ではないのだろうか。


ショーペンハウアーによれば、この世界に真の自由が現われるただ一つの例外的現象があるというのである。


しかもその唯一の自由の実現が人間だけに可能であり、ひとえに人間の努力にかかっている。


そのために、人間にだけは責任と罪ということもまた確かにあることになるのである。70


 よく知られた食物連鎖の図は、飢えたる意志という名の大蛇が自分の尻尾を噛んでいるように、おれには見える。


この食物連鎖というものは、それだけ見れば意味も目的も欠けているので虚無の表現にしか見えない。


それは一秒でも長く存在しつづけようとする遺伝子の盲目のいとなみだ。


ここでは、あらゆる有機体は遺伝子に次から次へと使い捨てにされる乗り物にすぎない。


意味も目的もない、始まりも終りもないグルグル回りである。


つまり ショーペンハウアーのいう盲目の意志だ。


自然の大いなる衝動(意志)は自分の欲しているものが何なのか知らない。


自己の表象としてのこの世界を「人間の認識能力」という自己の高度な表象を通して人間の中で人間とともに見つめる……このような回路によって意欲は意欲の何たるか(=自分自身)を知るのだとショウぺンハウアーはいう。54


そのとき初めて自身の盲目的なることをも知る。


欲しているものを知らない、ただひたすらな欲である自身の正体を知るのだ。


しかし、このように知る具体的な当体は人間にほかならない。


人間はこのとき、以上の一部始終を知ってしまう。


すると、人間(=一つの意欲)は、なんと大いなる自然の意欲そのものを是非しだす。


人間において、真の自由がほの見える瞬間である。


自分自身その一部分である自然の生きんとする衝動を肯定し身をゆだねるべきか、否定して まったく未知の人間だけの可能性に賭けるか……この<あれか これか>の選択。


自然的人間は、世界のあらゆる生きとし生ける存在者と共に否応なく前者になる。←平均人


せいいっぱい力んでも、今まで無自覚にしていたことを、あらためて自覚的にするようになるだけのことだ。←野心家


こうして大多数の人間においては、生れたばかりの真の自由は胚芽のまま枯れる。


自然の盲目の意志さながらに激しく喜び激しく苦しむ野心家の生きざまが、自然的人間の人生の究極の形なのである。


平均人はときに口では否認しても、心底では常に野心家の人生にあこがれている。


興業的に成功する物語が、ほとんどすべてといっていいほど野心家の生きざまを描いたものである理由はここにある。




ショ-ペンハウアーはくり返しいう。
生れたままの個人のまなざしは、マーヤーのヴェールに曇らされている、と。
この意味は二つある。


1 自分の存在と重要さを盲信するいっぽう、自分以外の存在と重要さを本当には信じていないのが人間の自然状態である。


2 このような自他を敵対するもの、というより事実上真に実在しているのは自分だけだとみなし、外界の存在をすべてたんなる表象にすぎないものとして、その重要さを軽視する動物的な限定されたエゴイズムは、錯覚なのだ。
人間の常態と、それが錯覚であるということ。
これを「個別性の迷妄」と呼ぶ。
(ショ-ペンハウアーによれば、自然が全体として示す盲目のエゴイズムがすでに錯覚である。だから、この個々の存在者が示す自己に限定されたエゴイズムは二重の錯覚である)
しかし、
なんと強固な錯覚であることか!
錯覚だとわかっても、どうにもならないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

※「人間の常態」
自然状態の人間を、普通に表から見ると「無反省な実在論」だが、同じそれを裏から見ると「無反省な独我論」なのである。




 
 「いかなる個人といえども無限の宇宙に比すればほとんど無にも等しいほど小さく、今にも消え入りそうな存在であるにすぎないのに、それにもかかわらず各自があえて自分を宇宙の中心だと考えて、自分自身の生活と幸福とをほかのなによりもまず先に願慮し、いや、それだけにとどまらない、自然のままの立場にいるときには、彼は自分の存在のためとあらば、ほかのあらゆるものを犠牲にしてもよい覚悟であるし、自らは大海のなかの一滴にすぎないというのに、自分の自我をほんの少しでも長く保持するためならあえて全世界の絶滅をも辞さないという心がまえでいる」
61





 
ショーペンハウアーの「意志の否定」とは、意志の消滅ではない。それは決して起こりえない。
「意志の否定」によって実際に現れるのは、
清められた意志
なのである。





ショーペンハウアーの「盲目の意志」…自分が何を欲しているか知らないひたすらな欲。姿かたちのない強力な生きんとする意欲のエネルギー


…生きんとする意欲それ自体に問題があるのではない。
自然状態の生きんとする意欲が、汚れて現れていることだけが問題なのだ。
意志に絡みついた三つの汚れを全面的に廃棄することこそが「意志の否定」の実際の意味なのだ。





ショーペンハウアーは「意志」の特徴をいくつかあげている。


意志は盲目であり、自分が何を欲しているか知らない点→これは

①無知の汚れ

である。


ひたすらな、強力な生きんとする欲である点→これは

②貪りの汚れ

であり、その流れが滞ると

③怒りの汚れ

に変わる。






ショーペンハウアーの「意志の否定」とは、意志そのものを直接否定・廃棄することではなく(それは原理的に実行不可能である)、自然状態の意志にまとわりついた貪・瞋・痴の汚れを否定することだ。


それは困難ではあるが、実行可能なのである。

 
※【貪瞋痴】とん‐じん‐ち
むさぼりと怒りと無知。貪欲と瞋恚(しんい)と愚痴。

 

 

 

 

 

 

貪の否定→否貪=知足


瞋の否定→否瞋=安心


痴の否定→否痴=智慧



清められた意志は、知足・安心・智慧の意志となる。





自然状態の汚れた意志を清める可能性を、人間だけが有している。


人間が救われる可能性も、ここに確かにある(ここにしかない)

 

 

 

 

 




 
 ショ-ペンハウアーはカントの有名な定言命法(「汝なすべきであるがゆえになすべし」)を批判して「すべしというのは子供とか、幼稚な年令にある民族に向かって言うことであって、成人に達した時代の教養をすっかり身につけている人々に向かって言うことではない」という。53

 さらに「カントが世間にひろめているのは道徳的なペダンテリーであるという非難はおそらく免れ難いであろう」13とさえいっている。

 
※『ペダンテリー』
 学者ぶること。衒学趣味。

 

 

 

 

 

 たんなる知識・情報の一つとして知っていることと、「生ける確信」57 となっていることの間には越えがたい深い断絶がある。すなわち、なすべきことを知っているだけではまだ全然徳があることにはならない。

 

 

 

 

 

「われわれの道徳説や倫理学でもって、有徳の士、高貴の士、聖人君子をつくり出そうと期待するようなことは、美学でもって、詩人、画家、音楽家をつくり出そうと期待するのと同じくらい愚劣なことであろう」


「徳にとっては概念は役に立たず、道具としてしか用をなさない」
以上53

 

 

 

 

 徳についての概念による学習はキッカケになれるだけである。すなわちそれは人間が生来もっていた性質が現われるための機会因にすぎない。


 道徳教育が直接人間を道徳的にするわけではない。真相はその逆で、人間に徳がもとから備わっているかぎりにおいて、道徳教育もいくらかの意味と価値を認めうるにすぎない。


 じっさい論語を読むだけでみな人徳者になれるなら誰も苦労はしない。


 すべきそのことを本当に欲しているかどうかが問題なのだ。


 すなわち徳とは徳を欲することだ。しかし「欲するということは教えようがない」(セネカ)。55したがって、徳を教えることはできない。

 

 

 

 

 

「外部からの影響が、従来意志の欲していたものとはなにか本当に別のものを欲するように、意志に仕向けることはけっしてあり得ない」


「動機のなしうることといえば、意志の目ざす努力の方向を変えるということ、すなわち変わることのなく意志が求めているものを従来とは違った方法で求めるように意志に仕向けるといったことにつきている」
以上55 

 

 

 

 

 

 世の中には内心自分の判断力に自信のない人が大勢いることはいうまでもないことだ。そのような人々が過去の道徳的人物のエピソードなどを使った道徳教育を受けることによって、その善き他人の経験と教訓を自分の内部の自発的意欲の代用とすることはある。66


 さらに意図的なやり方が因果律的フィクションである。これは、善行にはかならず御利益があるといった内容の作り話によって、いわば偽の動機を相手の中に作りだす方法である。

 ショ-ペンハウアーはそのような欺瞞の代表例として「相手の認識を偽造する」62宗教的フィクションを次のように分析している。

 

 

 

 

「実際に目の前にある事情でも知られることがなければ効果を失うことがあるのと同じように、まったく想像上の事情であろうとも実在上の事情と同じ効果を発揮する」


「ある人がいかなる善行も来世で百倍のお報いがあるであろうと固く信じ込まされていたとしたら、かかる確信はいかにも文字通りに長期支払手形のように通用し、効力を発揮しつづけるであろう。彼が別の明察を得ていたとすれば、利己心にもとづいて他人から金品を奪い取るであろうが、彼は今のこの場合には同じ利己心にもとづいて、今度は他人にその金品を施すようなこともするかもしれない」
以上55 

 

 

 

 

このようなやり方では、人々の本来の徳の可能性は損なわれてしまう。なぜなら、そのようなフィクションを信じる者は自愛心からそうするにすぎないからである。現実への適応に失敗すれば二度とそのての話を信用しなくなる。
 かれらは道徳的教訓ばなしを自分の意欲の代用にしてはみたが、それで心の持ち方まで変えたわけではないからだ。66
それゆえ、彼らは実社会の中でもまれていくうちに、それが現実にあっていないことに気づき、今まで思い違いをしていたことへの失望と反動でそれ以後道徳的な事柄に対してことさらに冷笑的な態度や露悪的な行動をとるようになってしまうことが多い。

カントの名を出して「徳を欲せ」とはいえる。しかし効果は期待できない。「……単なる道徳のお説教をするというだけではなんら効果をあげることはできない。そういう道徳は動機づけ(理由づけ)を行なっていないからである。ところで動機づけを行なっている道徳が効果をあげることができるのは、ただ相手の自己愛に訴えることによってのみである。だが、自己愛から発したものには、道徳上の価値はない」66
 
「浄福へと導いていくものが、動機から、ならびに熟慮をへた計画的意図から生じるような所業であるならば、徳というものは、どうこじつけようとも、つねに小利口な、組織的な、
見通しのきいたエゴイズム
であるにすぎない」
70

 
 ショ-ペンハウアーは頭脳明晰な徹底したリアリストで、その洞察は真相を鋭くついている。


 欲することは本人のみがなしうる。



 しかし、おれ自身はショ-ペンハウアーほど仮借なき立場に立つ勇気はとてもない。おれは、動機にもとづく善行は真の善行(おのずからなす善行)の練習になるとおもうので善いことだと信じたい。ただし、なんであれ練習する者は目的意識をもたねば上達しない。これは自分が真の善行に少しでも近づいていくためにやらせてもらうのだという自己の身にそくした緊張感がなければならない。


 現実は、たいていそのことを忘れているか、あるいはそもそもそのことに気づきもしない。


 練習でしかないギブアンドテイクの善行に満足し、自慢さえして、そんな自分に何の疑問も感じないのでは上達は絶望的といわねばならない。






 
「人間はひとたび生れればあとは永久に彼であり、自分が何であるかは、あとから追い追い認識していくのみである」


「このような人になりたい、あのような人になりたい、と決心して人間にはできるものではなく、また別人になるなどということが不可能なのもそのためである」


「人間はいっさいの認識に先立ってすでに自分で自分を作り上げている作品だ」
以上55
 
 ショーペンハウアーの人間観を読みすすむにしたがって、平均人や悪人に対する非難攻撃がしだいに無意味な徒労に思えてくる。
 さらにショーペンハウアーの人間観を見てみる。
 
「われわれはただア・ポステリオリに、経験によってのみ、他の人々を知るが、われわれが自分自身を知るのもそれと同様である」
55
 
※『ア・ポステリオリ』
  学習によって後天的に獲得すること

 

 

 

 

 

「他人の性格は曲げられない、このことをわれわれは経験を通じてはじめて知らされる。経験でこのことを悟るまで、われわれはだれかある相手に理性的な考えを与えたり、頼んだりすがったり、手本を見せたり義侠心に訴えたりして、相手にその人なりのやり方を止めさせよう、行動の仕方を変えさせよう、思考のあり方を違わせよう、さらにその人の能力までも拡大しよう、というようなことまでやれるものだとわれわれは無邪気にも信じているのである。
ところがこれと同じことがわれわれ自身についても言えるのだ。
われわれも経験をまってはじめて、自分が何を欲し、何をなし得るかを学び知るよりほかに仕方がない。
経験でこのことを悟るまで、われわれはそれを知らず、また無性格な人間なのであって、たびたび外部からの苛烈な衝撃を受けては、自分なりの道へつれ戻されるような仕儀にならざるを得ない」


「人間は、意志の結果として、また意志の性能に応じて、自分を認識するのであって、古いものの見方にあるように、認識する結果として、また認識に応じて、なにかを意志するというのではそもそもない」


「決断が起こってみなければ、われわれは自分がどんな種類の人間であるか分からないだろうし、行為をしてみてはじめて、われわれはそれに映して自分というものを知るのである」
以上55

 

 

 

 

 

 このようであってみれば、他人の生き方を攻撃するのはむしろ理不尽ではなかろうか。



 これは人間の実際の姿であるが、同時に「人は自分はこういう者だと思っているとおりの者になる」という深いレベルにおける事実も確かにあるとおもう。
 この「矛盾」は見かけ上のものにすぎない。
 同じひとつの事実を表と裏から二通りに表現しているだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おまけ)

 

パーシー・スレッジ
「男が女を愛する時」

 

 

 

 

 

 

 

 

サム・クック
「ワンダフル・ワールド」

 

 

 

 

 

 

 

この人も忘れちゃいけない。
アダモ。「夜のメロディー」

 

 

 

 

 

 

 

フランス・ギャル「夢見るシャンソン人形」

 

 

 

 

 

 

 

 

スージー・クアトロ
「Can the Can」

 

 

 

 

 

(過去記事統合編集再録)