仏教とは、ありのままの自分を深く信じることだ。
この「自分を深く信じること」が、親鸞のように、完全に、ほとんど自虐的なまでに
ネガティブ
に自覚、表明される場合がある。
以下の言葉は、その徹底ぶりによって詩に昇華している。
「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のこのみにて 清浄の心もさらになし」
「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる」
その他、愚禿悲歎述懐に多数あり。
「賢者の信は、 内は賢にして 外は愚なり。愚禿が心は、 内は愚にして 外は賢なり」(愚禿鈔)
「いずれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
(歎異抄)
「まことに知んぬ。かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかずくことをたのしまざることを、はずべし、いたむべし」
(教行信証)
他にもあるが、これで十分だろう。
自分を丸ごと、あちらの阿弥陀仏に預けきっているから、こちらの自分は、ネガになる。
これほど深い自信は、めったにあるものではない。
親鸞ははっきり気づいているのだ。
自分の影法師が濃く見えるのは、背後から自分に強いスポットライト(弥陀の光明)が当たっているからだということを。
親鸞以外では、
「愚中極愚。狂中極狂。塵禿有情。底下最澄。上違於諸仏。中背於皇法。下闕於孝礼。」
と願文に記した傳教大師くらいしか思いつかない。
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「ステップフォードワイフ」秀作
映画も良かったが、なにより原作がいいのだろう。
しかし、機械だらけの体が最後に元に戻るのはちょっと変。脳のナノチップだけにしておけば矛盾がなかったのに。未公開部分を見ると、矛盾があらわにならないように苦労して編集しているのがわかっておもしろかった。
「七人の侍」上佳作。公開当時に見たらまちがいなく秀作だが。
「生きる」いまでも秀作
「プリズンブレイク1」中佳作。
近所のスーパーで買い物。
簡単な分別さえ守らない人たちの捨てていったごちゃ混ぜごみ袋が山盛りになっていた。
そのうち店側が、ゴミ箱撤去などの対抗手段をとるだろう。
一握りの横着者のせいで、全員がその責任を取らされるいつものパターンが、ここでも繰り返される。