以下のごとく自ら反省せよというのだが…いささか自虐的に過ぎるのではと、ちらっとおもってしまいます。
外に賢善の相を現してはならぬ。内に虚仮を懐いている身である。
かかる身に
それ故にその安心、
(口語訳親鸞 教行信証付領解 金子大栄訳)
<原文>
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。
三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。
もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。
(親鸞聖人 教行信証・信巻)
自ずと出てくる反省でこうならない限りなんの役にも立たないとおもいます。
それのみか、親鸞聖人の表白を、ものまねで受け入れるのは非常に危険です。もし仏智の光をリアルに感じることがなければ絶望しかないですからね。
おれは正直まだそこまで踏みこめないので「自虐すぎる」と揶揄することで心理的バリアをはっているのかもしれません。
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(過去記事編集再録)