仏教とは、ありのままの自分を深信することだ。
この「自分を深信すること」が、親鸞のように、完全に、ほとんど自虐的なまでに
ネガティブ
に自覚、表明される場合がある。
以下の言葉は、その徹底ぶりによって詩に昇華している。
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のこのみにて 清浄の心もさらになし
悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる
その他、愚禿悲歎述懐に多数あり。
賢者の信は、 内は賢にして 外は愚なり。愚禿が心は、 内は愚にして 外は賢なり
(愚禿鈔)
いずれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし
(歎異抄)
まことに知んぬ。かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかずくことをたのしまざることを、はずべし、いたむべし
(教行信証)
他にもあるが、これで十分だろう。
自分を丸ごと、あちらの阿弥陀仏に預けきっているから、こちらの自分は、ネガになる。
これほど深い自信は、めったにあるものではない。
親鸞ははっきり気づいているのだ。
自分の影法師が濃く見えるのは、背後から自分に強いスポットライト(弥陀の光明)が当たっているからだということを。
親鸞以外では、
愚中極愚。狂中極狂。塵禿有情。底下最澄。上違於諸仏。中背於皇法。下闕於孝礼。
と願文に記した傳教大師 最澄くらいしか思いつかない。
「ステップフォードワイフ」
(Wikipedia「ステップフォードワイフ」ストーリーより引用)
ジョアンナはニューヨークでやり手のテレビ・プロデューサーとして働いていたが、過激な番組が元で辞任させられてしまう。すっかり意気消沈した彼女を気遣う夫のウォルターは、家族のためにコネティカット州のステップフォードに移り住むことを提案。ステップフォードは治安もよく、豊かで大変美しい町だったが、そこに住む女性たち(妻たち)は揃いも揃ってグラマーで貞淑で、あまりに完璧な妻であることにジョアンナは気がつく。
(引用終)
映画も悪くなかったが、なにより原作がいいのだろうとおもう(未読)
しかし、機械だらけのボディが最後に元に戻るのはちょっと変。脳のナノチップだけにしておけばよかったのに。
DVDで未公開部分を見たら、この矛盾ができるだけあらわにならないように、これでも苦労して編集してるのがわかっておもしろかった。
1975年映画『ステップフォードの妻たち』のリメイク.。
こちらの評価が高いらしいが日本劇場未公開。
YouTubeで観ることはできる(吹替無し)
近所のスーパーで買い物。
簡単な分別さえ守らない人たちの捨てていったごちゃ混ぜごみ袋が山盛りになっていた。
そのうち店側が、ゴミ箱撤去などの対抗手段をとるだろう。
一握りの横着者のせいで、全員がその責任を取らされるいつものパターンが、ここでも繰り返される。
しかしこれを改善する試みは、現状の不快感をはるかに凌駕する悪い結果を招くとおもう。
(過去記事統合増補編集再録)